大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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天満の滝川公園には、天満自治の重要な史跡「天満惣会所跡」と「天満興正寺跡」があります
天満宮から大川に向かって下って行くと、ちょうど南東に位置するところに、町なかにぽっかりと滝川公園があります。扇町公園とはまた違った趣の公園らしい公園で、結構な広さのわりにはチマチマといろんなものが詰め込まれていて、ちょうどいいサイズになってます。桜で有名な公園ではあるんだけれども、そのころには行ったことがないです…。盆踊りのころに、横目で眺めながらチャリで走った記憶はあるな。

滝川公園

滝川公園


この通り、南北2ブロックにまたがる、まあまあでっかい公園です。

滝川公園


さてここには、いくつかの跡碑が建てられています。

まずは、天満組惣会所跡碑

天満組惣会所跡

江戸時代のことですが、大坂は3つに分割されてました。
大川(当時の淀川ね)よりも北が「天満組」で、大川の北のエリアをさらに南北に分割した北側が「北組」、南側を「南組」としていました。これを総称して大坂三郷と呼びます。

太閤さんが亡くなった直後の時代、大坂夏の陣によって、大坂の町は大打撃を受けます。
そこで、復興は商業から!と、大坂らしいスローガンのもとに、大坂三郷はできたようです。

で、大坂三郷を統括していたのは大坂町奉行なのだけれども、町の行政の実際を担っていたのは、「惣年寄」や「町年寄」などの役職を与えられた人たちで、彼らは町人のなかから選ばれた人たちでした。
今の町会長に市会議員の権限を少しプラスしたようなかんじですかね。

「惣」は、すべて、というほどの意味があって、社会的な意味合いで使う場合には、その地域に住むすべての構成員、といった意味合いになります。なので、惣村といえば今の町内、町会に該当し、それが集まってできた惣郷は、今の連合町会や区に該当します。
なので、惣年寄は、そのエリアのすべての人たちの代表者、という意味になりますな。

それぞれの組には惣会所が置かれていて、天満組の総会所は、今の滝川公園にありました。

天満組惣会所跡


ここで、町人による自治が議論され、行政全般を処理していたといいます。今の区役所か区議会(ないけど…)みたいなところですね。
惣会所の筆頭が惣年寄で、その下に、惣代、手代といった役職の人々がいました。
ガバナンスのこうしたスタイルというのは、江戸にはなくて、畿内特有、それも大坂に顕著なシステムだったようです。



さて、惣会所の隣には、天満興正寺がありました。

天満興正寺跡

天満興正寺跡


創建はよくわからんのですが、1586年(天正13年)、歴史に登場します。創建当初は天台宗のお寺さんだったのが、途中、真宗に鞍替えします。で、真宗に鞍替えしたあたりから、歴史に登場します。
宗派が変更になるのはよくあるケースで、お寺さんにも栄枯盛衰があって、衰退して荒廃したお寺さんを誰かが再建するときなどに、再建した人の宗派になったりします。建物はそのままでも、お寺さんの主が変わると、宗派も変わる、というわけです。

詳しいことはわかってないけれども、この天満興正寺にも、上り調子のときと下り調子のときと、山あり谷ありの歴史があったんでしょうな。最盛期は、なかなか広大な敷地を誇っていたようです。

お寺さんというのは、なにも仏像を祀ってお経を唱えているだけの場所ではなくて、そこで読み書きソロバンを教えている場合もあれば、人々の憩いの場になったりもし、コミュニティのセンターのような役割を果たしている場合が多々あります。

天満興正寺では、天満組の「宗旨人別帳」を納めていたといいます。
宗旨人別帳というのは、現在の戸籍に相当する住民台帳のようなもので、江戸幕府がキリスト教の信仰を禁じるようになって、取り締まりの手段として、住民の信仰の状況を調べ台帳化する政策のなかでできたものですな。
一度見せてもらったことがあるのですが、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されてます。結婚やら丁稚奉公やらでその土地を離れる場合には、転居届みたいなのをつくり、移転先で新たな台帳へ記載します。戸籍+住民票みたいなもんですな。

通常、この宗旨人別帳は奉行所が保管するのだけれども、天満組では、天満興正寺に納めていたのだそうです。天満興正寺が私寺ではなく、かぎりなく公の地位に近い位置づけにあったということになるんでしょうな。かなり珍しいケースらしいです。

とにかく、丁稚奉公や結婚などの折りに台帳にいろいろ記入してもらうために天満興正寺に人々が行きますから、当然、出産のときも行くわけで、そのため、天満興正寺は別名、産寺とも呼ばれてたんですと。

別帳は6年おきに見直しというか監査のようなものを行なう決まりになっていて、それは惣年寄の役目。
その見直しか監査かを終えて、別帳を再び天満興正寺に納める行事を「巻納め」と呼び、この界隈の一大行事として有名だったようです。

そうなると、天満興正寺と天満惣会所が隣同士にあったというのはうなずける話で、永田町と霞ヶ関が隣同士だから便利なのとおなじことですな。

さて、この天満興正寺は、大塩平八郎の乱をはじめ、何度か戦災に遭い、そのたびに復興されるんですが、最終的には第2次大戦の空襲で焼失します。で、現在はなぜか旭区に移転してるんだとか。詳しい経緯は知らんですけどね。

ちなみに、滝川公園内には、お地蔵さんの祠がありました。
天満興正寺の伽藍の一部ですかね? …たぶん、違うだろうな。

滝川公園



祠のなかにはもちろんお地蔵さんが祀られていて、童子を従えていました。
丁寧に手入れされてるんで、きっと、夏のころには地蔵尊祭りがちゃんと開催されてるんだと思います。

滝川公園


惣会所も明治維新を境になくなるんですが、1872年(明治5年)、この地に滝川小学校が建設されます。
その後、そっから先の歴史って、あんまりよくわからんのですが、その滝川小学校も明治の終わりにはべつのところに移転して、天満興正寺も移転して、今、このあたりは滝川公園になっとります。

で、冒頭に戻る(笑)








天満組惣会所跡と天満興正寺跡
大阪市北区天満4-7 滝川公園内
mapを見る


     
   

江戸時代の特急、淀川三十石船☆
大川の北岸、天神橋から天満橋にかけては、今、天満南公園となってます。
そのむかし江戸時代ですけど、このあたりに天満青物市場があって、往時を偲ぶものとして、天満青物市場跡碑と天満子守唄碑と、それともういっこ、淀川三十石船舟唄碑があります。

天満青物市場跡碑と天満子守唄碑についてのエントリーは、こちら。

「天満青物市場跡にある天満の子守唄 碑」



今回は、淀川三十石船舟唄碑を。

淀川三十石船舟唄碑


当時、大坂には、八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀の4つの船着き場があって、天満の青物市場の玄関口となっていたのは、八軒家ですな。今、対面の岸に、八軒家浜駅として復活しているのが、そうですな。

伏見と天満を、船が往復してました。
上り船と下り船があって、上り船は主として朝早く天満を出て、夕方には伏見に着く船。
川を遡るんで、上り船はなかなか大変やったといいます。棹をさしてのぼるところもあったけれども、11里(約45km)を、ほとんど綱を引いてのぼったらしいです。

下り船は、伏見を夜に出て、早朝には大坂に着きます。こっちは水流に乗るから、ラクですね。

なので、船賃が全然違います。享保年間の記録だと、上り船が172文、下り船が72文。倍以上違います。

伏見の町が日本の歴史のなかで脚光を浴びるようになるのは、太閤さんが、伏見を城下町として開花させ、京と大坂を結ぶ淀川水運の発着点としてからです。

もちろん、伏見で終わるんじゃなくて、伏見で荷揚げされた荷物は高瀬川を走る高瀬舟に乗せて、京の町まで運ばれます。高瀬川は、京都の二条から鴨川の水を引いてつくった運河で、1614年(慶長14年)、角倉以了が拓いてます。彼を祀る菩提寺が嵐山の大悲閣千光寺で、僕はこのお寺さんが大好きなのですが、それはまたべつの話なので、ここでは省略(笑) じつにいいお寺さんなのですがね、ここは☆

上り船も下り船も貨物船なのだけれども、その後、徳川の時代になって世が安定してきたころに、大阪と伏見を結ぶ交通機関として、旅客専用の船、淀川三十石船が登場します。米を三十石(米俵にして75俵)積めることから三十石船。全長56尺(約17m)幅8尺3寸(約2.5m)、乗船定員28人〜30人、船頭さん4人の船です。
別名を過書船とも言われてました。過書というのは、関所を通過するときの交通税の免除状のことで、淀川三十石船は、江戸幕府から淀川水系の特権的な営業権を与えられていたので、過書船と呼ばれたわけです。

淀川三十石船舟唄碑


最盛期で162隻が就航していて、上り下りあわせて1日320便、9,000人が利用するという、当時の日本でももっとも太い交通路ですわ。
ということは、当然、競争原理が働きますから、どこで差別化するかとなったとき、やっぱりスピードなんですね。このへん、今もむかしも変わってませんな。
船頭が徐々に5人6人と増えて、早舟三十石とか早上がり三十石とか呼ばれるようになります。今でいう急行やら特急みたいなもんです。事故はなかったんやろか?(笑)

船頭が増えたところでしんどいのは変わらんし、チームワークも要求されるから、やっぱ、歌が生まれます。それが、三十石船舟唄。沿岸の情景を歌ってます。

跡碑には歌の一部しか刻まれてなかったけれども、全文はこれです。伏見から大坂の八軒家まで、順番に並んでますね。


「おぉーい、舟が出るぞー。伏見の浜から、三十石船が出るぞー。」
♪(ヤレサー)伏見下れば 淀とはいやじゃ 
    いやな小橋を とも下げに(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)淀の川瀬の あの水車 
    (ヤレー)たれを待つやら くるくると(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)淀の上手の 千両の松は
    売らず買わずで 見て千両(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)八幡山から 山崎山へ 
    文を投げたが 届いたか(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)八幡山から 橋本見れば 
    赤い女が 手で招く(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは前島 お捨の墓 
    いとも淋しい 波の音(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは大塚 榎の茶屋 
    向こうは枚方 番所浦(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここはどこじゃと 船頭衆に問えば 
    ここは枚方 鍵屋浦(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)鍵屋浦には 碇はいらぬ 
    三味や太鼓で 船止める(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは唐崎 八右衛門屋敷 
    腕によりかけ 押せ船頭(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ねぶたかどけど ねぶた目さませ 
    ここは五番の 変わり場所(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)いたら見てこい 大阪の城は 
    北は淀川 船が着く(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ねぶたかどけど ねぶた目さませ 
    ここは大坂の 八軒家(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

「おーい、客の衆よ。大坂に着いたぞ。さぁ上がった上がった。大坂の土産にどっさりと岩おこしなと買うていにさらせ。」


これ、民謡がベースになってるんだけれども、船頭唄なんで、本来的には三味線も尺八も太鼓も入りません。でも今は、三味線も尺八も太鼓も入れて、さらに船頭さんがお客に向かってガイドみたいなこともする語りも入って、ひとつの作品として完成しまくってます。
民謡の世界では、淀川三十石船舟唄の全国大会までちゃんとありますから☆


話は少し逸れるけれども、小舟に乗って三十石船に近づいていって、食べるもんを売ってたんが、あの有名な、くらわんか舟ですな。
枚方あたりで、餅やら汁もんやら酒やらを舟に乗って売りにきて、「餅くらわんか〜」「ごんぼ汁くらわんか〜」ってかんじで、汚い言葉で食べるもんを売りにきた、と。
それで枚方は言葉が汚い、下品や!って飛躍させる人もいるんですが、これ、枚方の専売特許じゃなくて、毛馬にもあります。毛馬のは、毛馬舟って言いますけどね。

ただ、くらわんか舟が汚い言葉で悪態を吐くのは、この地方では古くから悪霊を追い払うのに悪態を吐くという習わしがあって、旅の安全や無病息災を願うという意味で使われたので、旅人には大変喜ばれたといいます。そうでないと、ただ威張ってるだけの商売やったら、すぐに廃れてしまって、歴史に残りまへんがな。相手が武士であれ誰であれ、このスタイルで通したんで、エラいさんが乗ってるときなんかは、同舟の客は喝采を送ってたでしょうな。


さて、その淀川三十石船も、明治の半ばには大半が姿を消します。日本中で水運が衰退して鉄道がのし上がってくる時期と、ピッタリ一致します。
昭和初期までは、細々と、石炭貨物として生きながらえてはいたみたいですけどね。

浪曲の「清水次郎長伝」に、「石松三十石船道中」のくだりがあって、淀川三十石舟が登場します。次郎長に頼まれて石松が刀を四国の金比羅さんに奉納してくる道中、酒断ちを言われてるのにもかかわらず、三十石船で酒を飲んでしまってエラい目に遭うという話。

幕末のころには、諸国から京へ集まる勤王浪士たちも三十石船で京と大坂を足繁く往来したといいます。さすがは大動脈、というところですな。


これは碑の対岸に見える八軒家浜。

淀川三十石船舟唄碑






淀川三十石船舟唄碑
大阪市北区天満3丁目 天満南公園内
mapを見る




  

なんとか晴れの日を見つけて、造幣局の桜の通り抜けに行ってきた
土曜日に造幣局の桜の通り抜けに行ってきました〜。
今年は雨ばっかりで、スケジュール調整できるのかと心配してたんですが、土曜日の夜、晴れてたんで、サクッと。

雨の日は屋台にお客さんがひとっこひとりいないという状況だったらしいですが、この日は、例年通りの混雑ぶりでしたわ。

さて、通り抜けといって、なにを書けばいいのかしら?
天満橋の北詰を東に向かって歩いていくと造幣局の南門があって、そっから銀橋の手前にある北門までの約560メートルが…、なんてことは、ビギナーの方は、造幣局のサイトがあるんで、調べてください。

造幣局 桜の通り抜けのサイトはこちら。通り抜けが終わってから削除されるかも知んないけど。

http://www.mint.go.jp/sakura/torinuke/info.html


少しまえに、造幣博物館で通り抜けの歴史を見てきた記事をエントリーしたので、そっちのリンクでも貼っておきます。

そんときのエントリーはこちら。

「造幣局の桜の通り抜けの歴史を振り返る」


というわけで、書くことも特にないので、撮影してきた夜桜でも。暗いうえに僕のしょぼいデジカメなんで、たいした写真じゃないけれども…(笑)



入口にこんな立て札があったので、これが今年の桜か〜、って眺めてたら、この立て札は、「今年の桜は『都錦』って桜で、通り抜けのなかに3本あります」ってことを知らしているだけで、うしろの桜のことではなかったです。ああ、紛らわしい(笑)

造幣局 桜の通り抜け


以下、バラと見まごうばかりの山桜です〜。

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け

造幣局 桜の通り抜け 


おまけ。
屋台で見つけた、美味そうなマグロ☆
本マグロの脂の乗ったところを串に刺して焼いてました。1本500円☆
新顔かと思ったら、毎年出店してるんだとか。
去年はなぜかサンダル売ってる屋台が出てたけど、今年は見かけませんでした〜。

造幣局 桜の通り抜け





造幣局 桜の通り抜け

4月14日(水)〜4月20日(火)
平日 / 10:00-21:00 土・日 / 9:00-21:00
大阪市北区天満1-1-79
HP http://www.mint.go.jp/sakura/index.html

mapを見る







造幣局の桜の通り抜けの歴史を振り返る
花見っちゅうのは、奈良時代から貴族の行事としてあったらしいですな。そのころに愛でる花といえば、中国から伝来したばかりの梅です。梅が、最先端の文化でオシャレだった時代です。ちなみに、中国では、梅よりも牡丹のほうがはるかに人気があるので、梅が日本で人気になったのは、中国人にとってはさぞかし奇異に映ったんではないかと思うんですが、どうでしょうか?

日本人が愛でる花が梅から桜にとって代わるのは、平安時代に入ってからなんやそうです。だから、菅原道真なんかは梅とセットになってますが、ちょうど入れ替わりの時期やったんでしょうな。

9世紀中頃、平安京の紫宸殿の前庭に植えられていた梅と橘のうち、梅が枯れてしまったため、梅に代わって日本に古くから自生する桜が植えられます。これが、左近の桜のはじまり。これがまず、貴族社会で注目を浴びます。トップが梅から桜に心変わりしたことで、おおっ!となったわけです。
背景にあったのは、中国の唐から吸収する一方だった文化のトレンドが衰退し、カウンターカルチャーとして、日本固有の文化、国風文化が台頭してきたことがあると思います。
寝殿造りがつくられ、十二単が発明され、絵画のトレンドが唐絵から大和絵に転換にしたのもこの時期だし、決定的だったのは、日本初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂されたことにあると思います。歌といえば漢詩吟の時代にあって、醍醐天皇が命じて紀貫之が編んだ古今和歌集は、大和言葉で詠まれた歌を、歌の代名詞としてしまうだけの力があったということです。

というように、唐の文化一辺倒だったところに、カウンターカルチャーとして日本固有の文化が台頭し、その象徴として、日本に古来から自生していた桜が注目を浴びた、ということですな。古今和歌集は、桜をモチーフにした歌がめちゃくちゃ多いですしね。

パッと咲いてパッと散る儚さみたいなんが、日本人の美学に受けたなんてことはよくいわれますが、僕は、むしろ、夜の桜が放っている妖し〜い雰囲気が好きですわ。坂口安吾の「桜の森の満開の下」とかは大好きで、あれ、桜の妖しさが人を狂わせるからですね。



さて、造幣局。

造幣局といえば桜の通り抜けです。
造幣局でつくってるカネも人を狂わせる最たるもんですが、その横に、人を狂わせる妖気を放つ桜がたくさん植えられているというのは、いくらなんでも話が深すぎるような気がします。ブラックジョークもほどほどにしとかんと、と、思わんでもないです。

そもそも、なーんで、造幣局にはあんなに桜が植えられてるんでしょうかね?

ちょうど3月の末ごろに、造幣局内にある造幣博物館で桜の通り抜け回顧展をやってたので、それを見て、そもそものルーツなんかを調べてきました。

そもそもは、江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷(泉布館の北側)で里桜を育成しており、造幣局は敷地とともにその桜を受け継いだのが最初らしいです。品種が多いばかりでなく、ほかでは見られない珍しい里桜もあったといいますから、今の通り抜けの原型ですね。

造幣局がオープンしたのが1871年(明治4年)で、通り抜けがはじまったのは、1883年(明治16年)。当時の造幣局長が、役人だけで花見をしてはいけない!と、一般開放を断行したのが、はじまりですわ。

順路は、当初、総門(現在の南門)から柵門(現在の源八橋西詰にあった裏門)までの約1km。あ、1883年(明治16年)にでも、1898年(明治31年)に現在の北門付近までの約560mに短縮されてます。ちなみに、開始当時から一方通行。ただし、一方通行の方向は、ときどき変わってるみたいです。なんでやろか?

この時代、人出は約2万人から10万人で推移していたらしいです。
で、肝心の桜は、徐々に集められており、1909年(明治42年)の時点で18種287本、品種としては一重の「芝山」が半数を占めていたんやそうです。

大正時代に入ると花見客が激増し、1917年(大正6年)には約70万人を集めて、戦前の最高を記録します。
ただ、当時は、大阪の重工業発展期であり、煤煙により桜が枯死する事態が起こり、一重の「芝山」が半減するようなことになったんやそうです。
「芝山」に代わって、一重八重の「御車返(mikurumagaeshi)」が主流を占めるようになるんですが、この桜も激減の一途を辿り、品種の移り変わりが激しかったみたいです。
桜は大気汚染に弱いらしいですわ。なので、当時も今も、コンサルみたいな人がいてはって、維持管理のための努力はすごかったみたいです。

第2次世界大戦が勃発し、1942年(昭和17年)、通り抜けなんぞやってる場合ではなくなるんでしょうが、なんとこの年は、開催途中で中止されてます。軍部の横暴か?
大戦末期は空襲でももちろんやられて、1945年(昭和20年)6月の大空襲では、約500本中300本の桜が焼失。半分以上がアウトですわ。造幣局は軍事施設ではないと思うんですが、国家中枢のひとつなので、やっぱ、集中的に狙われたんかもしれません。

戦後の1947年(昭和22年)には通り抜けが再開しているんで、わりに早い時期の再開です。順次、桜樹の補充も行なわれ、1951年(昭和26年)には、夜桜の通り抜けもはじまってます。

ほいで、1955年(昭和30年)年あたり、工業の復興とともに、再び大気汚染対策の問題が持ち上がります。ここでもまた煤煙に強い品種とそうでない品種といろいろあったんでしょうが、現在の主流を占める八重の「関山(kanzan)」が、この頃から幅を利かせるようになったらしいです。

今は、毎年70〜80万人の人出で、2005年(平成17年)には約115万人近い人出があり、これが最高記録。
今年は道の拡幅工事が完了してますから、かなりの人出になるんとちゃいますかね?



以下、回顧展で展示されていた、むかしの写真です。


1870年代。造幣局がオープンして間もないころですな。
一応、桜が咲いている写真らしいのですが、人出がないので、まだ通り抜けがはじまってないころですね。
三味線弾いてるのは、芸子さんですかね? とすると、これは造幣局の役人さんが花見をしている風景かな。

造幣局通り抜け回顧展



1890年代。一重が主流を占めていた時代だけれども、写真で見るかぎり、八重桜のような気がします。人がまばらですね。これくらいやと、ゆ〜っくり見物できますな。

造幣局通り抜け回顧展



1912年(明治45年)。全員が着物ですね。

造幣局通り抜け回顧展



1921年(大正10年)。お子らの服がハイカラです☆

造幣局通り抜け回顧展



1931年(昭和6年)。銀橋が見えます☆やっぱ、銀橋はカッコいいですなっ!
この頃になると、ずいぶんと人が増えてます。

造幣局通り抜け回顧展


1942年(昭和17年)。エラい人出です。今よりも道幅が狭いです。

造幣局通り抜け回顧展


1952年(昭和27年)。子どもがいっぱいですね。学校から来てるんでしょうかね?

造幣局通り抜け回顧展





さて、今年の桜は、「都錦」。京都御所にもともとあった桜とされ、花は淡桃白色で、花弁数は約20枚。通り抜け通路に3本だけあるんやそうです。
で、知らんかったんですが、毎年、「今年の桜」のコインが発売されるんですな。

造幣局通り抜け回顧展




造幣局桜の通り抜け
大阪市北区天満1-1-79
HP http://www.mint.go.jp/sakura/torinuke/info.html
google mapを見る

今年は4月14日(水)〜20日(火)まで
日没後、ライトアップ
平日 / 10:00〜21:00
土・日 / 9:00〜21:00





造幣博物館へ行き、造幣局が単なる貨幣鋳造工場ではなく、新技術の一大センターやった歴史を持つことを知る。(画像26枚付き)
えと、まずはお知らせ。
昨日、夕方にイレギュラーで1本エントリーしました。お見逃しなく。

「NHKよりももっと神聖かまってちゃん!」


では、本題。

造幣博物館


造幣局にある造幣博物館に行ってきました。
去年だったかリニューアルしたときに行こうとしたんですが、そんときはすでに予約でいっぱいで1ヶ月先まで埋まってるとかで、断念。
で、つい先日、思い立って飛び込みで行ってみたら、普通に入れてくれました☆
今は、特に予約とかはしなくてもいいそうです。

造幣局は、1871年(明治4年)開業です。

江戸の元禄以降、幕府は財政が苦しくなると貨幣を改鋳して差益を稼ぐようになり、その場を凌いでました。これ、ほとんど偽札造りとおんなじなんで、これを体制ぐるみでやったもんやから、貨幣経済が極端に乱れるのは、あたりまえですわ。
それでも国内でグルグルまわしてるあいだはまだマシですが、開国で外国貨幣と交換するようになると、金、銀の含有率がマチマチの貨幣が出まわってるわけですから、計算がややこしくして仕方ありません。で、外国人から、なんとかしてくれ!と。通商条約結んでるんだから、いろいろ言われますわな。

これが、造幣局ができるバックボーンです。
というか、当時は藩札なんかもあったやろうし、各藩がめいめいで独自通貨を流通させていたので、統一させねばなりません。でないと、国としての体を成しまへん。中央集権国家にせんと、諸外国から食いもんにされてしまうという危機感もあったわけです。

で、造幣局設置と相成るわけですが、これは、明治政府の最初の政策やったらしいです。難波、中之島も候補に挙がったんですが、水運と景色がいい(!)ということで、天満にあった旧幕府御破損奉行所材木置場跡が選ばれて、1867年(明治元年)、洋式設備による造幣工場の建設に着手します。

設計は、イギリス人技師のウォートルス(アイルランド人と表記されることもあるけれども、この時代、アイルランドはイギリスに併合されていたんで、それを根拠にイギリス人と称されているんだと思います。ちなみに、ウォールトスという名前は、れっきとしたアイルランド系)。泉布観も彼の設計です。
当時はまだレンガを造る工場がなかったんで、堺東湊に新たに炉を築いてレンガを製造し、海からそれを運んだんやそうです。
必死こいて西洋文明を根こそぎ取り入れようとしていた時代の賜物ですな。

そうして、造幣局の建物は、1870年(明治3年)に完成。
工場のなかに設置するプラント、鋳造機などは、イギリスの香港造幣局の出物を買い付け、香港造幣局局長を招いて技術指導も受けてます。こんとき、鋳造機の買い付けに大活躍したんが、五代友厚です。

開業当時の様子を描いたものが、博物館にありました。

造幣博物館



ジオラマもありました☆
最近、あちこちでジオラマを見ているせいもあって、なんか、ジオラマが好きになってきた(笑)

造幣博物館

造幣博物館


1871年(明治4年)2月15日の開業式には、右大臣三条実美、参議大隈重信をはじめ各国大使が列席してます。明治政府の実力を国内外に見せつける狙いがあったんでしょうね。大川べりを紅提灯で飾り、花火を打ち上げ、横浜や神戸からコックを動員して西洋料理で歓待します。翌日からの3日間は一般にも開放されて、参観者が多数押しかけ、エラいこと賑わったんやそうです。

この年、新貨条例が公布され、1円金貨と20円金貨が新たに発行されて、2円、5円、10円金貨と併せて5種を本位貨幣とします。さらに、5銭、10銭、20銭、50銭の銀貨、1厘、5厘、1銭の銅貨を補助貨幣と定めます。硬貨12種です。結構、細かく分けてます。

ビックリなのは、造幣局では、明治後期から大正時代にかけて、韓国やロシアの貨幣造幣を請負ってることですわ。自国の貨幣造幣を他国に委託する例は今でもときどき耳にするけれども、造幣をスタートさせて30年やそこらで他国の造幣を請け負うって、技術的躍進と国際社会における政治経済の存在感の増しかたがすごすぎます。第一、ロシアなんて、すでに敵性国家だったんじゃないのか?

第1次大戦後には工場が拡張されて、年間鋳造高5億枚の能力を持つようになり、世界有数の造幣局となってます。

これ、工場内のようです。これまたジオラマ(笑)

造幣博物館


金属を延ばしてます。

造幣博物館


刻印が終わって、袋に詰めてるところ?
見張り役の人がいてますね。

造幣博物館


大阪における造幣局の位置づけというのはなかなか重要で、たとえば造幣局では金銀地金を分析精製するために硫酸製造所がつくられるのだけれども、この技術はのちに民間に伝えられ、1879年(明治12年)には日本初の大阪硫酸製造会社が設立されたりします。

さらに、ソーダ、ガス、コークスを製造したり、反射炉を設けて銅を溶解する技術を外国人から学んで取り入れたりしていたので、その技術も、のちに民間に伝えられます。
1881年(明治14年)に設立された大阪製銅会社は、造幣局の雇っていた外国人から指導を受けて溶解炉をつくっています。
また、ガス溶解炉の余ったガスで、局の内外に660余のガス灯を設置したのは有名な話ですな。

まだまだあります。
造幣局の煙突にレンガ使われたことから、これにヒントを得たガラス業者がレンガで炉を築き、石炭を燃やしてガラスの原料を溶かす方法を考え出し、ガラス工業を前進させるキッカケとなってます。

技術面だけではないです。
当時の大阪の港だった川口から造幣局まで物資を運ぶために、堂島川沿いにレールを敷き、馬車鉄道を走らせたりしてます。
複式簿記を採用したのも、造幣局が市内では初。
インクを製造して各官庁や学校に配り、インク使用のきっかけをつくったのも造幣局。
教育面でもいろいろとやっていて、日進学会という機関をつくって、英語や物理などを教え、断髪、廃刀、洋服の着用を率先して行ない、新たなライフスタイルの提案まで行なってます。

なんちゅーか、単なる貨幣鋳造工場ではなく、新技術の一大センターであり、新しいライフスタイルの発信元でもあったのが大阪の造幣局で、近代化の灯りというか、シンボル的な存在だったことがわかります。



以下、造幣博物館で見てきたもの〜。

まずは、500円玉の鋳造過程ですね。


このカタマリから、はじまります。

造幣博物館


延ばして、シート状にします。

造幣博物館


面を削って、キレイにしていきます。

造幣博物館


さらにキレイに仕上げます。

造幣博物館


シートから円形に打ち抜きます。打ち抜かれた残りのシート、ほしい(笑)

造幣博物館


円形の円周に縁をつけて、ちょっと盛り上げます。

造幣博物館


洗浄して、キレイにします。

造幣博物館


刻印です☆これがあって初めて硬貨ですよね!

造幣博物館


こういう原型を刻印機にとりつけて、縮形させて刻印します。

造幣博物館


刻印済みの500円玉〜。これ、普通に現金やん!
検査してるんじゃなくて、ルーペでホログラムを見ることができるようになってます。
ま、自分で持ってる500円玉で見ればいいことですが(笑)

造幣博物館


袋詰め。袋留めのバンドの色で、なんの硬貨が入っているのか区別できるようになってます。財務省にでも持っていくんでしょうか?あ、日銀か。

造幣博物館





続いて、世界の珍しいかたちをした硬貨。
僕、ハート型したレコードとかは持ってますけど、硬貨もたいがいですな(笑)パズルになってる硬貨って…。符牒の役割まで果たしてたりして(笑)


造幣博物館

造幣博物館

造幣博物館

造幣博物館





その他いろいろ。


博物館の入口にあったのは、明治9年製の大時計。
無骨な感じの、なかなか男前な時計ですな。

造幣博物館



天秤。これも無骨な感じがグッと来ます。ほしいっ(笑)

造幣博物館


1868年(明治元年)、当時の大阪府知事であった後藤象二郎が、大阪城内に動物園をつくるためにイギリスから鉄柵を輸入するのだけれども、動物園設立の計画そのものが、あえなく頓挫します。で、それを聞きつけた造幣局が、造幣局の取り締まりに必要不可欠であり、また威厳保持のためにこれを譲り受けたいと懇願し、井上馨の口利きでもらい受けます。
ほいで、無事に鉄柵を張り巡らせ、その後1973年(明治5年)に明治天皇が視察に訪れるんですね。そんときに造幣局の地に第1歩を踏まれたのが、この「欽明門」ですわ。

造幣博物館


造幣局の外にあった、日時計。影が指してないので、日時計の役割を果たしてません(笑)

造幣博物館




いや〜、なかなか見どころがたくさんあって、造幣博物館はおもろいです。
やっぱ、おカネにまつわることは、興味深いことが多いですわ。
ちなみに造幣局は予約制で工場見学も受け付けているみたいなので、また機会があれば行ってみたいです。





造幣博物館

大阪市北区天満1-1-79(造幣局構内)
tel. 06-6351-8509
HP http://www.mint.go.jp
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まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.3 - 蜂起前夜編
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まっすぐな男・大塩平八郎の足跡を辿るシリーズ、いよいよ佳境の「大塩平八郎の乱」に突入します。

これまでのエントリーは、こちら。

「まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.1 - 名与力として活躍する編」
「まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.2 - 陽明学者として洗心洞を主宰する編」


1833年、台風や冷害が重なったこの年の作況指数は不作もいいところで、米価が高騰します。しかも、3年続きの凶作で、餓死者が20万人〜30万人という、マンセー支配下の北朝鮮状態が続いているわけです。
これが、世にいう「天保の大飢饉」。

そうした事態のなか、与力を辞したとはいえ、世を憂う大塩平八郎さんは、ときの町奉行・跡部良弼(老中の水野忠邦の弟ね)に、飢饉対策を進言するのですよ。
凶作とはいえ、大阪は日本のトレードセンターだったわけですから、全国から米が集まってくるので、市中にコメは出ずとも、コメ問屋や商家の蔵には、まだまだコメがあったんですね。もちろん、値上げ見込みの塩漬け作戦。

こーゆーことは、いつだって、ときの政府の仕事のはずで、平八郎さんもですな、値上げ見込みで売り惜しんでいる豪商たちから奉行所命令でコメを出させてはどうか、と、訴えるわけです。
ところが、跡部奉行は、奉行に意見するとは無礼者!と、大塩案に耳を貸さず、です。

ちなみに、この、コメの出し惜しみ&値上げ大作戦というのはなかなかえげつなくて、奉行所もグルになってたんですよ。
大阪に搬入されるはずのコメを兵庫でストップさせて、海上から将軍のいる江戸に運搬し、点数を稼ぐ、と。
これだと大阪にコメが流れないので、大阪では米価が高騰で豪商はホクホク、奉行所は将軍家にたいして点数稼ぎができるので、こちらもホクホク。
大阪の米価は、このせいで6倍まで高騰したそうです。もうね、世のため人のためなんて考えはどこにない、超利己主義に走りまくってる人たちばっかり。

で、平八郎さんが打った次の一手は、三井や鴻池らの豪商に、人命がかかっているから6万両の義援金を出してくれ、というもの。
でも、豪商さんたちは、これも無視。

でもなあ、平八郎さん。もちょっと根回しというか、持っていく話があまりにも直裁的すぎる気がするんですわ。大飢饉の真っ最中とはいえ、豪商からダダでコメを出させたりカネを出させたりというのは、向こうも商売人やから、そう簡単に呑める話ではないです。それと引き換えに名誉を与えるとか、あとで低利で融資を受けられるように取り計らうとか、相手が乗りやすい話に仕立て上げることはできんかったんですかね、と、思わんでもないです。

というわけで、対策は一向に進まないまま、餓死者の数だけが増えていくなか、平八郎さんは、自身が日頃から唱えている陽明学の教え、知行合一にしたがって、正しい知識は正しい行動が伴ってこそ、を、実践することを考えるようになるわけです。

事態が一刻の猶予もないなか、コトここに及んで、平八郎さんはついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をします。堺で鉄砲を買い付け、高槻藩からは数門の大砲を借りますねん。最終目標は、あり余るほど大量の米を備蓄していた、大阪城の米蔵☆

蜂起のまえ、平八郎さんは、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文を作成します。

「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為すときであり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」

と。

1837年1月。平八郎さんの同志連判状に約30名の門下生が名を連ねました。
内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸ですわ。

2月になり、平八郎さんは5万冊の蔵書を売り払い、手に入れた600万両を1万人の貧民に配ります。が、しかし、奉行所はこれを売名行為と罵ります。
檄文は周辺4ヶ国の貧農に配付され、一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とします。

いよいよ蜂起☆ 大塩平八郎の乱の幕が切って落とされました!
舞台は、洗心洞!
切って落とされたのですが、長くなってきたし話はまだまだ続くの、この先は次回ということで。

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洗心洞跡碑

大阪市北区天満1-25 造幣局官舎内

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まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.2 - 陽明学者として洗心洞を主宰する編
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真っ直ぐな男・大塩平八郎の足跡を追っています。

前回のエントリーはこちら。

「まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.1 - 名与力として活躍する編」


前回は、与力になり、奉行所の不正を暴いた末に与力を辞職するまでの時間を追ったわけですが、これに先立つこと5年まえの1825年、大塩平八郎は、私塾「洗心洞」を、大阪は天満の自宅に開きました。

教えていたのは、陽明学。
彼は、与力であると同時に学者としても広く知られており、同僚の与力、部下の同心、医者や豪農らに、陽明学の思想を説いていたのでした。

もっとも、当時は陽明学と呼んでいたかどうか。
朱子学から分かれた陽明学は、中国の明の時代に王陽明が起こした儒教の一派で、当時は、王陽明の名字をとって王学、後年のどこかで名をとって陽明学と変化してますねん。江戸時代はまだ、王学と呼んでいた可能性が高いのですがね。

まあ、呼び名はともかくとして、儒教から発展した朱子学も、朱子学から枝分かれした陽明学も、社会のなかにあって人はどのように振る舞うべきか、といった処世訓に集約されると、僕は思っています。

そこにはもちろん、孟子が説いた性善説も入り込んでいて、極端にいえば、「性」と「善」をキッチリと細かく定義して、それらに即した行動をとらねばならない、という学問ですな。

ものすごーく思弁的な説明にしかならんのですが、一応、書いてみることにすると…、

朱子学のテーゼであるところの「性即理」は、心を「性」と「情」に分別します。「性」とは天から賦与された純粋な善性を指し、「情」とは感情として表れる心の動きを指します。
そして朱子学では、そんな「性」のみが「理」にあたるとし、「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する森羅万象の「理」でもあるとします。
つまり「理」は、自身の内にあれ外にあれ、普遍的である、と。

ところが、だ。王陽明は「性」と「情」の両方を併せたものが、「理」に他ならないという立場をとりますねん。
でも、この解釈だと、心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な森羅万象の「理」を参照する必要はないことになります。
これを現実の社会にあてはめてみると、世のなかにある権威や名誉といったものが軽視されて、大切なのは本質だけだ、みたいなことになってしまいます。

どういうわけか朱子学を学んだ人が陽明学に転向していく例は多いのですが、これはきっと、陽明学のほうが、純粋度が高いというか、ソリッドに削ぎ落とされているぶん、特に若い人たちに受けたんでしょうな。権威軽視は反権威に容易に繋がるだろうし、反権威は、それを叫んでいるあいだは、とりあえずはカッコいいですからな。

ただ、陽明学は、性も情も合わさって「理」となると説くので、情の代表である欲望を肯定してしまうところがあるんですね。
陽明学は明治以降盛んになっていくモノの考えなのだけれども、それはきっと、この、欲望の肯定が貨幣経済の浸透とシンクロしていったんではなかろうか、というのは、僕の考え。

閑話休題。

これ以上、陽明学について詳しく書いても仕方がないんで、本筋に戻ります(笑)

日本に伝わった朱子学は、普遍的な秩序志向を持っていたので、体制側に好まれました。
一方、陽明学は、個人の道徳の問題に偏重する傾向を持っていたので、反体制の論理と容易に結びついて、体制に歯向かうことを好む人たちのあいだで流行りました。

大塩平八郎は、江戸時代、幕府に楯ついた大反逆者の烙印を押されたけれども、それはもちろん、陽明学の大家であったことと結びついてます。ただし、陽明学は、あくまで道徳を説くのであって、反体制を奨励する学問ではないですけどね。ただ、そう見られやすい、と。
事実、幕末の尊王攘夷は、陽明学の影響をモロに受けてるし、そのルーツのひとつには、大塩平八郎の名も挙げられます。

で、大塩平八郎が陽明学を教えていた私塾「洗心洞」の規律は厳しくてですな、夜中の2時(←起床時間だとさ。笑)に講義がはじまり、真冬でも戸を開け放していたといいます。
でも、門弟は増える一方。
奉行所の不正の内部告発という一大事件の首謀者として活躍し、奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、40歳のときに、「知」は「行動」が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説きます。
「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と言い放ってますからね。
そんとき、門弟とともに、富士山に登ってはりますわ。
富士山に登ることが知行合一なのかどうかはともかくとして(笑)、超ストイックな生活を自身に課していたことはたしかで、そのあたり、やはり、真っ直ぐな男としか言いようがなく…(笑)

さあ、これで下地はできあがりました。
次回はラスト、大塩平八郎の乱ですわ。
乱の拠点となったのは、もちろん、大塩平八郎の自宅にして思想的拠点である私塾「洗心洞」のあったところ。
これまた、造幣局の官舎内に、碑が残されています。

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洗心洞跡碑

大阪市北区天満1-25 造幣局官舎内

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まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.1 - 名与力として活躍する編
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平八郎さんこと大塩平八郎は教科書で習った大塩平八郎の乱の首謀者にして名与力、高名な陽明学者でもあり、江戸時代に北区を舞台に活躍した人です。

なので、このブログでも取り上げないとな〜、と、ずっと思っていて、つらつらと合間を見て調べてたんですが、このおじさん、なかなかタフなおじさんでした(笑) というか、今やってるドラマ「まっすぐな男」そのものですわ。見てないけど(笑)

書くこといっぱいあるんで、4〜5回くらいにわけてエントリーします。

1793年(寛政5年)、大塩家の八代目として、初代からの屋敷であった天満で生まれてはります。もろ、北区民☆

今、造幣局の官舎内に「洗心洞」の跡碑が建っていて、そこが屋敷跡です。洗心洞については後述するとして、この地の町名は今も「天満」ですから、もう、生粋の天満人ですな。

大塩家は、初代から代々、大坂町奉行所付きの与力の職を継承していて、禄高200石。これは悪い待遇ではなかったらしいです。禄高200石といっても、今の値打ちでどれほどのもんかわからんので実感がないんですが、悪くない待遇やったらしいですよ。

7歳のときに両親と死別し、その後、おじいさんとおじいさんの後妻に養育されます。不正を許せない実直な性格が後年いろいろとやらかすことになるんですが、その気質は、しつけに厳しかった継祖母の影響を強く受けている、と。このあたり、三つ子の魂百までというか、かーなり、徹底的に叩き込まれたみたいですわ。

14歳で早くも与力見習いとして出仕し、その後、25歳で正式に祖父の跡を継いで寄り気になります。
与力というのは、今の警察機構でいうところの中堅幹部みたいなもんで、奉行が警察署長やとしたら、その直下のセクションで、配下の同心を指揮して捜査にあたる捜査本部長みたいなもんですな。
25歳で捜査本部長ですから、今やと、中央官庁から派遣されてきたバリバリのキャリア組ということになるけれども、この時代、大阪は大阪だけでまわってたんで、実質的には地方公務員的存在であるには違いない、と。

同心、与力と、北区には今でもそういう町名がありますが、これはつまり、同心たちの住んでいたエリア、与力たちの住んでいたエリアと、エリア分けされていたころの名残で、同心と与力は上司と部下の関係なので、隣同士のエリアに配置されていたことが、今の町名を見てもわかりますわ。

もっとも、現存する与力宅は、今、造幣局の官舎のエリア内にあって、現在のそこの町名は天満ですから、当時は、そのあたりまで与力町やったんでしょうな。

与力宅は武家屋敷風の建物で、現存しているのは、江戸時代の東町奉行所配下の天満与力の中島家の役宅門で、当時、この付近一帯は、天満与力の役宅が軒を並べていたらしいです。今もむかしも、官舎のエリアってことですな。
で、これが唯一の現存する建物で、しかも、門構えだけ。
1948年(昭和23年)に茶室として増改築されたものの、老朽化が激しいので、2000年(平成12年)に改築されてます。
当時の与力は500坪、同心は200坪野や敷地を賜ってます。広いっ!

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どの与力宅も似たようなもんなので、大塩平八郎さんも、こんなかんじのところに住んでたんでしょうな。これ見て、往時を偲んでました。


さて、平八郎さんは、与力に就くやいなや、人物優秀やったんでしょうな、翌年には吟味役(裁判官)に昇進します。吟味約は、与力職のなかでも上級職ですわ。そこで、裁定に鋭い手腕を発揮した、と言われております。

平八郎さんは20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神であるところの、「よいと知りながら実行しなければ、本当の知識ではない」を、実践していくわけですね。
そんな平八郎さんが吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたこと。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届き、開けてみると、中身は小判。カネのお菓子は、今でこそ時代劇の悪代官が登場するシーンでよく見かけるけれども、この時代の出来事をモデルにして、このシーンはテレビドラマで定着していったのですね。
もちろん、賄賂がアリだから、捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていて、つまるところ、奉行所は腐りきっていたわけです。

で、ここで幼少のころから叩き込まれた不正を許さない性格が頭をもたげ、内部告発のための証拠を集めに奔走するわけです。保身、一切なしの真っ直ぐな男☆

証拠集めの結果、わかったことは、弓削というとんでもない与力が西町奉行所にいることを知ります。
弓削クンは、裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党ですわ。

大平八郎さんは弓削クンと徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削クンのシンジケートを壊滅させるんです。
結果、弓削クンは自害し、平八郎さんは3千両を没収します。この3千両は、今なら国庫に納まりますが、時代は江戸時代、大岡裁きが許されていたんでしょうな、貧民への施し金となったわけです。あたりまえですが、これ一発で、平八郎さんは庶民のスターになります。

ところが事件はこれで収まらず、「24」的な悪党の後ろにはさらに大悪党が控えている、というのを地でいくような展開となります。世にいう大塩平八郎の乱なんて、まだ先の話でっせ!

捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠が出てきたんですわ。
もちろん、余計なことすんな!大人しくしときんしゃい!と、相手は幕府中枢ですから、圧力がかかるわけです。
でも、そんなことで怯む平八郎さんではありません!身の危険を感じて同棲中の彼女を親戚の家に匿ってもらい、彼自身は、腹をくくって巨悪に立ち向っていくのでした…。

そっから先、八面六臂の大活躍で、1830年(天保元年)、平八郎さん37歳のときですが、起訴までこぎ着けましてん。小沢一郎と検察の対決で、ここまでは検察が勝った!みたいな話ですわ。

ところがですわ、起訴はしたものの、奉行所の裁定は、平八郎さんを深く失望させる内容だったのでした。
幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になっただけで、この事件は幕が下ろされました。今でいうところの、形式犯的な罰金20万円くらいの、軽〜い処分ですわ。
そして、その処分の1ヵ月後、平八郎さんを陰ながら応援してくれていた上司が辞任。お上に楯ついた代償は大きかった、ということです。
これに連座するかたちで、名与力として人望を集めていた平八郎さんも職を養子の格之助に譲って、奉行所を去ります。こうして、平八郎さんの25年にわたる奉行所生活が終わったわけです。平八郎さん、40歳のときです。

大塩平八郎の乱は、こっから先の出来事ですが、まずは前半生を。
この次は、まっすぐな男・平八郎さんに大きな影響を与えた陽明学の話を。






東町奉行所配下天満与力、中島家役宅門
大阪市北区天満1-25 造幣局官舎北2号館南

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SDA大阪センター教会のパイプオルガン・コンサートに行き、ついでにパイプオルガンの構造をつぶさに教えてもらう☆
SDA大阪センター教会のパイプオルガン・アフタヌーン・コンサート 天満


天満橋のたもとにSDA大阪センター教会というキリスト教会がありまして、教会のてっぺんに据え付けられているロザリオはわりと遠くからもで見えるし、夜になるとライトアップもしているので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。

そのSDA大阪センター教会には礼拝堂にパイプオルガンがありまして、ときどき演奏会を開いてくれています。

クリスマスの時期にクリスマスコンサートがあって、昨年のその時期に、初めて行ったのでした。

そんときのエントリーはこちら。

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート


で、今年から2ヶ月に1回、パイプオルガンのアフタヌーンコンサートが開催されることになりまして、早速、行ってきたのでした。偶数月の第1木曜のお昼です。

時間は、12:20〜12:50までの30分間。
お昼を食べて、そのあとにパイプオルガンのコンサートを聴いて、そのまま午後の仕事へ。ちょっとカッコいいじゃないですか!30分という時間が、とてもいいかんじです。
まあ、こんときの僕のお昼は塩サバ定食だったんで、なかなか落差がありましたが(笑)


さて、演奏されるのは、早野紗矢香さん。教会員であると同時に、優秀なオルガニストなのだそうです。

演目は、
1)「主よ 人の望みの喜びよ」(バッハ)
2)「プレリュードとフーガ ニ長調 BWV532」(バッハ)
3)「朧月夜」(岡野貞一)
4)「ゴシック・メヌエット」(ボエルマン)

1)は、バッハお得意のカンタータのひとつで、神を讃美する曲ですな。教会で奏でられるのには、とっても相応しい曲です。でも本来は合奏で演奏されるものなので、ひとりでは弾けず、サポートの人を連れての演奏でした。なかなか珍しい光景ではなかろうかと。

SDA大阪センター教会のパイプオルガン・アフタヌーン・コンサート 天満


2)は、バッハが20歳くらいのときにつくった曲。若さが漲っている曲で、パワフルです。それをパイプオルガンで弾くのだから、迫力が倍増して、すごいことになてました!

3)は、菜の花畑は〜、でおなじみの童謡を早野さんがアレンジして、パイプオルガンで。フルートの音色の弾きはじめで、春の日だまりのような、穏やかでたおやかな演奏で、これ、かーなりよかったです☆

4)ラストは、フランスの作曲家のメヌエット。全然知らないですけど、メヌエットらしい、軽快なテンポで、パイプオルガンで弾いても重くならないところが非凡だったように思います☆



とまあ、なかなか優雅なお昼のひとときを過ごしたわけですが、今回、オルガニストの早野さんと仲よくなってしまい、パイプオルガンについていろいろ説明してもらっちゃいました☆(ついでに、弾かせてもらうという暴挙にも! …や、まったく弾けないんですけどね、僕は)


パイプオルガンというのは、SDA大阪センター教会のだと、金属製と木製の両方で1228本のパイプがあって、それぞれのパイプはリコーダーとおなじ構造になっているので、鍵盤を押すことで、パイプの下から風を送って、風をパイプに通すことで、音を出す楽器です。楽器というよりも、建築物といいたくなるくらいのデカさではありますが。。。

こちらのパイプオルガンは鍵盤が上下2段になってますが、上の鍵盤で正面上のパイプを鳴らし、下の鍵盤で右側に据え付けられているパイプを鳴らし、フットペダルで左側に据え付けられているパイプを鳴らす仕組みに鳴っています。なので、上下の鍵盤、フットペダルのすべてを同時に操作すると、3台のオルガンをひとりで操作していることになります。

SDA大阪センター教会のパイプオルガン・アフタヌーン・コンサート 天満

SDA大阪センター教会のパイプオルガン・アフタヌーン・コンサート 天満


さらに鍵盤左側にはパネルスイッチがあって、スイッチのON/OFFを操作することで、1本1本のパイプに風を送ったり送らなかったりの制御ができます。鍵盤を弾きながら、このパネルスイッチを操作して音色を切り替えるので、大変といえば大変ですな。さらに両手がふさがっているときは、フットペダルがパネルスイッチと同様の役割を果たすので、足で操作することも多々あるそうです。

曲によって使う音色は違うし、音色はひとつではなく、いくつもの音色を組み合わせて同時に鳴らすので、鍵盤下に設けられたボタンによって、あらかじめ音色の組み合わせを登録しておいて、ボタン操作で、音色を切り替えていくこともします。

さらにさらにですな、パイプに風を送るのはオルガンの下に設置された送風機で送るのですが、これは、強弱をコントロールしたりすることはできないのだそうです。ピアノと違って、オルガンの鍵盤は、パイプに風を送るか送らないかの切り替えしかできなくて、音量の調節はどうするのかというと、鍵盤上部にあるガラス窓を開け閉めすることで、音量を調節します。この開け閉めは、フットペダルのあいだにある、車のアクセルのような踏み板を操作します。電動じゃなくて人力で窓の開閉の度合いをはかるので、踏ませてもらったんですが、なかなか手応えがありますわ。

SDA大阪センター教会のパイプオルガン・アフタヌーン・コンサート 天満


こうやってつぶさに見ていくと、パイプオルガンというのは、単にでっかいオルガンというだけではなくて、超絶テクニックを要求される、なかなかに難しい楽器だということがわかりましたわ。これでリズムボックスがついてたら、ほとんどコンピュータプログラミングされたシンセサイザーですやん。そこを人力でやるので、それはそれは大変です☆


次回のアフタヌーン・コンサートは、2ヶ月先の4月1日(木)。
このくらいのペースだと、季節が巡ってるんで、いいかんじですね☆







SDA大阪センター教会
大阪市北区天満2-2-10-201
tel. 06-6351-8577
HP http://sda-osaka.jp/

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SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート
SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート 



大阪市の北区には、僕が確認しているだけで4つほどキリスト教の教会があるのですが、天満橋の北側ちょい西寄りにSDA大阪センター教会というプロテスタント系の教会がありまして、この教会にはパイプオルガンが設置されているということを以前から聞いていて、いつかチャンスがあれば見てみたいなあ、と、ずーっと思っていたのでした。

サイトもあります。

http://sda-osaka.jp/

で、ひょんなことから、毎月第1木曜の12:20〜12:50、パイプオルガンのアフタヌーン・コンサートが開催されていて、これは誰でも聴きにいくことができて、しかも無料!ということを知ったのでした。

そんなわけで、12月の第1木曜、3日のお昼に、お昼ゴハンもそこそこにしてチャリを飛ばしていってみたら、12月は20日にクリスマスコンサートをやるので、振替になります〜、と。チーン。。。。

というようなことがあって、改めて20日に仕切り直して、行ってきましたです〜。

SDAとは Seventh-day Adventistsの頭文字をとったものしたものらしいですが、プロテスタントに属している(ということは、日本では少数派)ということ以上のことは、僕は知りません。サイトをいくら読んでも、さっぱりわかりません(笑)
わかりませんが、行ってみると、怪しいかんじや閉鎖的な雰囲気は皆無で、かといって商売っ気を感じることもなく、いたって普通ですわ。結婚式も、もちろん受け付けてます。

手づくりでやり切ったらしい素朴なクリスマスでコーレションで飾られた入口を抜けて礼拝堂に入ると、正面に、でーんとパイプオルガンが据え付けられてました。

サイズ的には5mくらいで、ビックリするようなデカさではないですが、礼拝堂のサイズにピッタリ収まった、いいかんじのパイプオルガンです。

お聞きすると、教会が建った1990年にこのパイプオルガンも設置された(というか、同時に建設されたんですな)もので、ドイツのボッシェ社製だそうです。

パイプは、金属製と木製の両方を併せて1228本。
でっかいのだと、3000本だとか4000本だとかもあるけれども、1228本というのも、なかなかのサイズのパイプオルガンですね。

鍵盤を押したり足でフックを踏んだりしてパイプに風を送り、音を出します。パイプに風を通すことで音を出すのだから、原理的には、笛とおんなじ。金属製のパイプはさまざまな金属が使われているらしく、それぞれで音色が違うので、ひとりで管楽器のアンサンブルを演奏しているみたいなもんですな。

こじんまりとした礼拝堂なので、パイプオルガンを間近でまじまじと見ることができました。
正面にデーンとあって存在感を示しているのだけれども、ちゃんと、礼拝堂にマッチしてますね。でも、不思議なもんで、その存在感ゆえに、これがあるだけで、なかなか荘厳な気持ちになります。

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート


コンサートは2部制で、第1部では、クラシックの小品を。パイプオルガンの魅力を伝えるための曲が用意されているみたいです。
バッハの「甘き喜びのうちに」
トスティの歌曲「そうなってほしい」
バッハのフーガ ハ長調BWV547
バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」
ダカンの「ノエル」
ヘンデルの「主よ、汝に感謝す」
の、5曲です。
バッハが多いのは、それこそ、オルガンといえばバッハ、バッハはオルガン用の曲をメチャクチャたくさん書いてるからでしょうね。

途中、ソプラノ歌手が登場して、オペラの一幕で歌われる歌曲を披露したりしてくれます。このソプラノ歌手はイタリアに留学しているそうですが、なかなか上手い☆

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート



第2部は、クリスマスにちなんだ曲。
アダンの「ホーリーナイト」
ジグーの「ノエルによるラプソディ」
フランクの「天使の糧」
クリスマスキャロル(もろびとこぞりて、荒野の果てに、きよしこの夜)

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート

パイプオルガンは装置がでっかいので意外なほど大きな音がするのだけれども、第2部では、静かに静かに演奏されていて、徐々に荘厳な雰囲気になっていきます。

そして、クライマックスで、キャンドルサービス。
このあたりが、普通のコンサートじゃなくて、教会の行事っぽいところです。
茶屋町や中崎町や西梅田で行なわれたキャンドルナイトとは、雰囲気が全然違います。

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート


最後のクリスマスキャロルは、全員で合唱。
いやいや、パイプオルガンのある礼拝堂を見ることができると聞いて来てみたら、宗教行事としてのクリスマスらしい、素朴で、素敵なコンサートでした。

SDA大阪センター教会のクリスマス・パイプオルガン・コンサート

それにしても、パイプオルガンの音色は、思っていた通り、素敵です。
毎月聴けるのなら、これからも、都合がつけば行ってみようかと。




SDA大阪センター教会
大阪市北区天満2-2-10-201
tel. 06-6351-8577
HP http://sda-osaka.jp/

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