もうずいぶんとむかしのことだけれども、21歳の夏を、僕は、パリのとある下町で過ごしていました。
ぶっ飛んだ若い連中や、目をギラつかせたアジアやアラブ、アフリカからの移民、合法と非合法の境界線を綱渡りしながら歩いているような連中がたくさんいて、毎日が絵空事のように刺激的だったのでした。
でっかいビルとビルのあいだの路地みたいなところに、違法なのかどうか知らないけれども、路上のカフェがあってね、来る日も来る日も、そこで沈没してました。
どー見ても路上なんだけれども、その路上に厨房があって、ビル壁に沿ってテーブルとイスが並べられていて、各テーブルにはパラソルまで据え付けられていて、どっから見ても立派なカフェです。
もっとも、路上なので、店の入口も出口なければ、普通に通行していく人もいます。
主にアラブ系の人たちがたむろしているカフェで、闇両替やらドラッグやら売春やらのブラックマーケットのオッサンがいっぱいいて、そいつらにぶら下がってるチンピラみたいなのもたくさんいて、そーゆー人たちと僕は来る日も来る日もワイワイやっていたのでした。
まあ、どーしようもない連中なのだけれども、あの人たちは、悪人ではなかったな。悪いこといっぱいしてる人たちだったけれども、笑顔が素敵だったり、人がよかったり、なんかしら魅力があって、憎めない人たちでしたわ。
パリには移民がたくさんいるし、個人の努力だけでは抜け出せないような格差もいたるところにあるから、生きのびるため、のし上がっていくためには、モラルを超えていかなければならないときもあるだろうし、リーガルマインドなんてのは、こういう環境では屁の突っ張りにもならんのだから、僕は、そういう人たちがやっていることを非難する気にはなりません。
根っからの悪人だったらイヤだけれども、どっかしら魅力のある人たちばっかりだったから、毎日、楽しく、刺激的に過ごしてました。
ベロニカと知り合ったのは、そのカフェでの夜のことでした。
彼女は、ストリップダンサーでした。
ステージがはねたあと、彼女はきっとこのカフェで遅く貧相な夕食を摂っていました。僕たちは、どちらからともなく話をするようになっていて、僕は、極東の奇妙な国に覆う息苦しさから逃れたい一心で、アジアから中東を抜けて気がつけばこんなところまで流れてきていたんだ、みたいなことを話したように思います。
ベロニカ、というピカソのモデルになった女性と同じ名を持つ彼女は、ハンガリー生まれのロマ(ジプシー)で、パリでストリップショーをやりながら生計を立てている、いろいろ辛いことはあるけれど、ダンスがあるかぎり生きていけるんだ、みたいなことを、訥々と話してくれました。
訥々とではあるけれども多くを語ろうとはしない彼女の話から透けて見える現実は、シビアな現実でね。動乱のハンガリー現代史とロマのヨーロッパでの扱われかたを、僕はそれなりに知識として知ってはいたけれど、おそらくは、そんな生半可な知識では想像も出来ないような修羅場を、彼女はいくつもいくつもくぐってきたんだろうな、と、その場で僕は朧げながら感じとるのみでした。
どこかで重なるところがあったのか、なにかの波長が合ったのかは定かではないのだけれども、結局、その夜から僕はベロニカの家に転がり込むことになって、若さにも流れにも身を委せて、その年の夏の2ヶ月を、僕は、ベロニカとともに、彼女の家で過ごしたのでした。
ノー・ミュージック・ノー・ライフ、ってなくらいに音楽にのめり込んでいた僕にとって、ベロニカと過ごした日々は、煌めく宝石のようなものだったな。
サルサ、サンバ、スコットランド民謡にアイリッシュ&ケルト民謡、オキナワ民謡(!)、フラメンコ、ミュゼ、ルンバ、チャチャチャ、マンボ、ブーガルー、ガンボ、カッワリー、そしてロックンロールとブラックミュージック、レゲエ、スカ、ダブ、ロックステディ……。ベロニカは、世界中のありとあらゆるダンス・ミュージックに、その身を浸していて、まだ青くて堅いばっかりのパンク&レゲエ小僧だった僕には、それらはとても新鮮で、ピカピカに磨かれたおろし立てのブーツみたいに魅力的なものに感じられたのでした。
いろんな話をしました。
音楽について、音楽の未来について、ダンスについて、リズムについて、リズムの未来について、快楽について、感情と理性の揺らぎについて、ロマについて、共産主義について、資本主義について、自由について、不自由について、民族について、国家について、人が人を愛することについて、人が人を愛することのバカバカしさについて、交わることについて、男と女について、すれ違うことについて、旅をすることについて、旅をしながら生活をすることについて、流れていくことについて……。ホント、いろんな話をしたし、いろんなことを、ベロニカからは教わったような気がします。
旅をしていてよかったなと思う瞬間は、そういうときですね。
触れれば火傷をしてしまうような、熱い真実に出会うことが、あります。ベロニカは、そういう、真実の塊のような人でした。
夏の陽差しが心なしか柔らかくなってきた晩夏のある日、僕はベロニカの家を出る決心をしました。次の旅をはじめる、再び流れていく決心を、僕は、したのでした。
そのことをベロニカに告げたとき、
「旅をするんだったら、いろんなことを見て、聞いて、感じなさい。いろんなことを知りなさい。そして、知り得たことのすべてを、他人の立場や環境をリアルに想像するための手助けにしなさい。他人の立場をディテールまでリアルに想像することができたら、戦争や諍いはなくなるわ」
彼女は、僕にそう言ったのでした。
おそらくは個人の力ではどうにもならない巨大な力に翻弄され続けてきたであろう彼女は、そして自らの出自と生業に対して謂われのない悪意しか示さなかった人が圧倒的だった環境を生き抜いてきたであろう彼女は、それでも、なお、個人と個人は繋がることが出来るという希望を捨てずに、僕に、人間は想像することができる、と、言うのでした。
そのときのベロニカの視線のオクターブの強さ、意志を持ったクチビルの動き、適度に緊張した力を漲らせた指先、オーロラのように背後にはっきりと見えたオーラは、否応なく僕の胸の奥の深いところに刺青のように刻印されていて、今でもまだくっきりと残っています。
今、ベロニカがどこでなにをしているのか、僕には知る由もありません。何年かまえにパリを訪れた際、かつてのベロニカの住んでいた場所に行ってみたけれども、すでに彼女はそこでは暮らしていないようでした。きっと、どこかの空の下で、僕が見上げれば広がっているのとおなじ空の下で、彼女は今もきっとダンスしているのだろうと思う。
先日、西天満にトルコ料理の店がオープンしてるよ!と聞いて、しかも水タバコが吸えるよ!と聞いて、行ってきたのでした。
じつはベロニカと出会ったカフェで、僕は、来る日も来る日も、水タバコを吸っていたのでした。
シーシャって呼んでたな。このカフェではフランス語じゃなくてアラビア語が幅を利かせていたから、水タバコのことは、アラビア語でシーシャって呼んでました。「ガラス」の語源だと言っていたような…。
糖蜜で固めたタバコに炭を乗せて熱して、煙を水を通して吸うから、水タバコ。
精製してない黒タバコを吸ってたんで、きつくて最初はよくむせてたんだけれども、1回で1時間くらい持つし、毎日、昼と夜と1回ずつ吸ってましたね。
パイプの口を取り替えればいいだけだから、他人の水タバコももらったりしたし、そんなことをしているうちに、隣の人ともすぐに仲よくなる。
そうやっていろんな人と仲よくなり、ベロニカとも邂逅したのでした。
件の西天満のトルコ料理の店の水タバコは、アラブ世界で僕が嗜んできた水タバコとは少し違っていて、ちっちゃなちっちゃな、赤ちゃんみたいな水タバコでした。
水タバコの機能は器具の大小にかかわらず変わらないけれども、このサイズはちと淋しい。
でも、あのとき以来の水タバコを吸っていて、まるで昨日のことのように、フラッシュバックしてきました。
うん。濃密な時間だった。
トルコ料理 Ay Yildiz(アイユルズ)大阪市北区西天満5-15-7 ADGビル1F
tel. 06-6360-7738
11:00-15:00 17:00-24:00
HP
http://www.ayyildiz.jp/→
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