大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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江戸の天才怪僧・慈雲、中之島に生まれる
慈雲尊者生誕の地碑


日本の仏教というのは、最初、文明の総体として日本に入ってきます。
仏教的な無常観や、世界や宇宙を認識するための思想、さらには建築技術や土木技術など、西の文化の中心地から眩しく放たれる光を、最新のモードとして受け入れようとしたのが、日本に置ける最初の仏教です。

だから、奈良時代のお寺さんは、現代に翻訳すると、その役割は国立大学のようなものです。

これらの国立大学としての仏教寺院は、ときの政府のシンクタンクみたいなもんでもあったわけなので、政治と癒着し、腐敗も起こります。腐敗というのが言い過ぎだとしたら、組織の硬直化と言っていいかもしれません。

その後、日本仏教は、何度かのルネサンスというか、揺り戻しを経験します。

都を京に遷したのは、奈良仏教界、つまり南都六宗の影響から逃れたい朝廷の思惑があったわけだけれども、その流れのなかで、京都のお寺さんは大半が、いわゆる私立のお寺さんとして建立されます。つまり、国家の庇護を受けず、それでも民衆のために、と、真に宗教家としての篤い志を持った人たちが、この時代、ルネサンスを企てます。

日本において、仏教が最も隆盛を誇ったのは鎌倉時代だと思うのだけれども、これは、学問としての仏教が深みを増したことにあるんだと、僕は思っています。その流れのなかで、浄土宗が起こり、門徒宗が新たに起こって、禅宗が起こり、日蓮宗が出てきた。既存仏教では対応できない現実に、新たな考えを持った人たちが台頭してきます。これも、一種のルネサンスというか、揺れ戻し。

まあ、このあたりは本論ではないのでざっと流すとして、江戸時代です。

乱世をくぐり抜けて太平の世になった江戸時代、政策上、新たな宗派が起こる余地はほとんどなかったのだけれども、そのぶん、内部深化や内部からの揺れ戻しが起こります。

ひとつには、念仏を唱えさえすれば極楽に行けるといったような時代を経て、儒教を学ぶにしても仏教を学ぶにしても、なにかにつけて研究をしていこうという考えが主流を占めるようになります。
戒律の復興も、そういうトレンドのなかから生まれてきました。

中之島の、ロイヤルホテルのすぐ東側に、慈雲尊者生誕の地碑が建ってます。

江戸時代、慈雲さんというお坊さんがいたのでした。
もう、江戸時代のそういうトレンドのなかから生まれてきたような、お坊さん。

戒律を重視し密教と梵語を学び、。18歳の時に、京都で儒学まで学んでいます。その後、奈良で顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、大阪に戻ってからは戒律の研究をはじめ、灌頂(免許皆伝みたいなもんです)を授かってます。最後には、独自の神道説まで唱え、もはやなんの宗教家わからぬような境地にまで達してしまったお人。

1758年(宝暦8年)、40歳のときに、1,000巻に及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著してます。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするもので、インドの原典を注釈した膨大な文典で、横書き、アルファベット索引付きという驚異的な代物らしいです。
のちに、1898年(明治31年)、フランスの梵語学者シルヴェン・レヴィが来日した折、『梵学津梁』を見て驚き、世界に類を見ないすばらしい著作として、広く海外に紹介したのでした。そのせいで、慈雲さんの業績は広く世界に知られるようになった。梵語の理解度は、当時の世界最高峰レベルに達していたと評価されてます。

釈迦の説いた教えを純粋に実践し、本来の僧侶や寺院のあり方を取り戻そうと戒律復興運動に尽力。冥想に打ち込み、多くの庶民に法を説いて止まなかった慈雲さんは、同時代の剣術家や書家、政治家として活躍した山岡鉄舟から、「日本の小釈迦」と讃えられています。

晩年、名誉や地位を嫌い、自然を友として、超人的な業績を残した慈雲さんは、1804年(文化元年)、87歳の長寿を全うし、京都は大原の奥地にある阿弥陀寺でその生涯を終えました。

生誕の地碑は、リーガロイヤルホテル横、駐車場の一角、草葉の陰に隠れて、ひっそりとたたずんでいます。
もちょっとお祀りしてさしあげたら、と思わないでもないのだけれども、ご本人は、草葉の陰から、この世の有象無象を楽しく眺めているようにも思えてきますな。






慈雲尊者生誕の地碑
大阪市北区中之島5-3
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つけ麺じゃなくてラーメンを探して新規開拓 note.002 「羆(ひぐま)」- ほっこりできる味と、おやっさんの調理アクションが秀逸☆
 つけ麺じゃなくてラーメンを探して新規開拓 note.002 「羆」- 悪くはないが記憶に残んない。。。


近ごろ、右を見ても左を見ても、どっこも、つけ麺の店ばっかりじゃないっすか、おじょうさん。
ほんまもんのラーメン屋さんは、どこ行ったんでしょうかね?

ってことで、ラーメン屋さん巡りってのは元々はあんまり興味ないんだけれども、ちょっと取りかかってみることにしました。

第1回目は「煮干しラーメン 玉五郎」

ここは、個人的にはナシのお店だけれども(笑)


さてさて、第2回目は、扇町公園南側、旧水道局扇町庁舎の東側にある、扇町公園周辺のなかでも一番いけてないエリアにあって、我が道を行く!ってかんじで営業しているお店、「羆(ひぐま)」

羆(ひぐま)

価格破壊立ち飲みの名店「得一」の並びにあります。

ずーっとまえから気にはなっていたんだけれども、なんとなく縁がなくて、スルーしていたお店でもあります。なんちゅーか、店名からサッポロラーメンだってことはわかるから、メインは味噌ラーメンに違いなくて、味噌ラーメンっちゅーのは個人的には興味ないんで、もう何年もスルーしてきたお店なのですね。

でも、昨今のどこもかしこもつけ麺ブーム!を受けて、そうも言ってられなくなってきたんで、つい。

店内見るまでもなく、外観だけで、昭和レトロ満載で、およそ衛生的とは言いがたく、経験上、このテのお店は大アタリか大ハズレかのどっちかです。

さて、ここはどうでしょうか。。。。

ガラガラっと戸を引いて中に入ると、狭い!(笑)
L字のカウンターに6人がMAXではなかろうかというスペース。
座席スペースよりも厨房のほうがデカいのではないか、というくらいのレイアウトです。

なにはともあれ、この店のイチオシ、味噌ラーメンを注文。
ちなみに狭い店内の隅っこにはテレビが置かれていて、阪神戦やってました。
店のオッサン、一見、とっつきにくいかんじかんじだけど、いつのまにか阪神ネタで盛り上がってしまいました。オッサン、というよりも、かーなりご年配のじいさんなんだけど、接客の距離感が、近すぎず遠すぎずで、なかなか心地いいです。

カウンターなんで、もちろん厨房が丸見えです。厨房が見えるってのは、僕、好きですね。飽きないもん。
で、ラーメンつくるところをずーっと見てたんですが、つくってる姿がね、ビシッとしてて美しいんですわ。ちょっと大げさ気味なアクションが入るんだけど、丁寧につくろうとしてるんだな、というのが、そのオーバー気味のアクションから伝わってきます。

麺を平たいザルで湯切りする姿、
チャーシューを切る姿、
仕上げの盛りつけを整える姿、
端正で、強くて、リズミカルで…
ほんま、これは一見の価値があります。



ほいで出てきた、味噌ラーメンです。

羆(ひぐま)


見たまんまというか、ごくごく普通の味噌ラーメンで、美味いっちゃ美味い。
味噌のコクがすんごく効いていて、お好きな人にはたまらん味かと。
麺は、少しだけ縮れ気味の、そーいえば最近はあんまり見かけないけどむかしはみんなこうだったよな、って麺。
ほいで、チャーシューは、なかなかの太っ腹な厚さです。
その他、もやし、メンマ、ナルト、ネギ…、定番のトッピング。

なんちゅーか、懐かしい味といえばいいのか、むかしながらの安心できる味です。
ただし、味噌ラーメンがそれほど好きではない僕にとっては、味噌のパンチが強すぎ。でもこれを店の非にしちゃうのは、もちろん気が引けます。

近頃このあたりは寂れ気味だし、やっていけるのかなと思っていたら、水道局の扇町庁舎があったり、今、結婚式場になってるところがかつてはビジネスホテルだったりで、それなりにお客さんがたくさん来ていた時期もあったそうです。今は、どっちもなくなっちゃってるから、売り上げ的にはしんどくなってるだろうけれども、でも、つけ麺に一切手を出していない、つまり流行ものに安易に飛びつかないこういうお店は、きっと長生きすると思いますわ。





羆(ひぐま)
大阪市北区末広町3−19
tel. 06-6313-4928
11:30-14:00 18:00-翌2:00
日休み
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天満は大阪ガラス業発祥の地だけでなく、果たした役割がデカいと思う
大阪ガラス業発祥の地


天満とガラス業と聞いてピンと来る人は少ないと思いますが、天満はそのむかし、ガラスの生産や加工が盛んな土地やったそうです。

天満宮の南門の西に、「大阪ガラス業発祥之地」と天満宮の寺井宮司揮毫によって書かれた碑があるのは僕も知ってましたが、いかんせん今の天満にはガラス業と結びつくようなものは、ほとんどない。

ほとんどないけど、ないことはない。

谷町筋の東側、東天満あたりに、象印の本社があります。

そっからの西側、同心町や与力町あたりは、ガラス工場が軒を連ねていたそうです。
朝日ガラス製作所のでっかい工場があって、徳永ガラスがあって、本州ガラスがあって…。名の知れたガラス工場がいくつもあったのだと。
その周辺には小さなガラス工場が小さな窯をつくって分業で担っていて、加工屋さん、切子屋さんと、とにかく、あちこちでガラスを吹く職人さんがいたんだそうです。

ガラス屋が多いというだけでなく、技術力に定評がありました。電球も職人さんがひとつずつ手吹きでつくっていて、腕のいい電球職人がたくさんいたんでしょうな。象印の本社が今でもこの近くにあるのは、魔法瓶もガラスでできてるんで、創業者は、このあたりの電球職人だったそうです。

昭和30年代の終わりころから、消防法がうるさくなって、規制が強化されて、それに対応できないところから順番に消えていったんだとか。
ガラスが溶けるのは1200度〜1400度と高温だし、炉のまえはトタンや鉄板で囲ってあるとはいえ、それだけの温度だと危険きわまりないし、火事もあったとのことです。

ガラス業発祥の根拠となっているできごとは…、

江戸時代、世界で最も古い色被せガラスである「乾隆(kenryu)ガラス」が中国から長崎に伝わり、当時の長崎ガラス職人であった播磨屋久兵衛が大坂に呼ばれて、天満界隈で製作をはじめたのが最初である、と。

このガラスの評判が江戸に伝わって、江戸切子としてもてはやされる。

一方、薩摩切子は、1846年(弘化3年)に薩摩藩の27代藩主、島津斉興が、江戸・加賀屋のガラス職人である四本亀次郎を招いて、薬ビンなどのガラス器の製造に成功したのがはじまりであると言われてます。

江戸時代、ガラスは、「びいどろ」とか「ぎやまん」とか呼ばれてました。びいどろはポルトガル語で吹きガラスのことで、ギヤマンはオランダ語で切子のように彫刻を施したガラスのこと。

ただ、薩摩切子は、一旦、途絶えます。
途絶えていた薩摩切子を、昭和になって復刻させたのが、大阪は天満に本社のあった、日本最大のガラス商社のカメイガラス。学者肌だった社長が薩摩切子のよさを忠実に復刻して、商品化を実現させたのが、今から30年くらいまえのことです。

その後、カメイガラスは倒産しちゃったけれども、カメイガラスがなかったら薩摩切子は今みたいに有名にはなっていなかっただろうし、その流れから、現在では天満切子も生まれています。

天満切子については、以前、北区の職人展についてエントリーしたときに紹介しました。
そんときのエントリーはこちら。

「北区にはこんなにも素敵な手仕事があった!第2回 北区の伝統文化と職人さん展『ものづくりと手仕事を中心とした展示会』」


というふうに、ガラスにまつわる歴史を振り返ると、やっぱ、天満はガラス業の発祥の地というだけでなく、業界発展に果たした役割がデカいですな。






「大阪ガラス業発祥の地」碑
大阪市北区天神橋2丁目1-8 大阪天満宮前
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蔵屋敷は、物資の集積地のみならず情報の集積地でもあった
蔵屋敷跡碑



江戸期の中之島は、全国から米をはじめ珍奇な物資が集まり、売買される活気に満ちた場所でありました。蔵屋敷がたくさんあったからね。

蔵屋敷については、西天満は裁判所横にひっそりとたたずむ佐賀肥前半蔵屋敷跡をエントリーしたときに、書きました。
そんときのエントリーは、こちら。

「佐賀は肥前藩蔵屋敷跡も今は…」


話はだぶってくるけれども、今回は中之島の蔵屋敷を。

リーガロイヤルの横に、蔵屋敷跡碑があります。

全国でも随一のロジスティック・センター兼市場だった大阪にあって、最大の集積物資は、年貢米です。
その年貢米の保管や売却にあたるのが、各藩の蔵屋敷ですな。んで、その多くが、中之島に集中していた。

秋に収穫が終わると、外航船に乗せて大阪に積み送ります。港に届くと、10〜20石程度の小舟(上荷船や茶船)に載せかえて、中之島の蔵屋敷に届けます。
渡辺橋から西は蔵屋敷の瓦葺きの土塀がたくさん並んでいたというし、船でそのまま横付けできるようにもなっていたといいます。
入り堀である舟入が設けられ、蔵元からの船を横付けにし、荷物の陸揚げ、積み込みを行ったのが一般的で、玉江橋のたもとには久留米藩の蔵屋敷があり、舟入に架けられた橋は久留米橋と呼ばれました。他にも、熊本橋、高松橋、鳥取橋など、その藩の舟入に架けられた橋があったとか。

米の他にも、土佐藩ならかつお節、福山藩なら畳、徳島藩なら藍玉など、全国から珍しい特産品も集まってくるので、さながら、全国ご当地直売市が毎日開催されていたようなもんです。

蔵に納められたものの売買は、町人が請け負います。これ、町人蔵元と呼ばれていました。
町人蔵元は、自ら輸送手段や保管手段を持ち、蔵物の売買を委託され、自己の責任で損益を負担します。これって、よく考えると、多機能型近代倉庫の草分けですね。

米の売買は、蔵屋敷に仲買人を集めて、入札で行います。

こっから先、簡単にいうと、米が証券化され、金融商品として売買されるようになり、しかも先物でもあるから、米価変動のリスクヘッジも行われるようになり、と、高度に金融が発達していくわけです。


蔵屋敷は、まず、入札の期日と払い下げ量を公示して、米の仲買人に入札させます。で、落札した仲買人は保証金を納める。その後、数日以内に掛屋(銀行みたいなところですな)で残り代金を払い、受領書にあたる銀切手を引き取ります。
それを30日以内に蔵屋敷に提示し、今度は、「米切手」と交換します。

運んできた米を軒先に並べて、そこにきたお客さんに値段をつけて売るという普通の商売じゃなかったわけです。入札させ、証券を発行するのだから、相場が立ちますな。
蔵屋敷が建ち並ぶ中之島から堂島の一帯のど真ん中、堂島に米相場があったのは、ごくごく自然なことだったと思います。

で、仲買人は米切手を小分けにして米屋さんに卸すわけです。
米切手を持参した蔵屋敷に提示すれば、いつでも記載された量の米を下げ渡される権利を持っていたので、これは、小切手みたいなもんです。
ただし、今みたいにコンピュータで処理してオンラインでネットワークが結ばれている時代ではないので、事務処理に一定期間の猶予が蔵屋敷側に許されていたと言います。
これが、当初は30日だったのが、次第に延びて、1年〜1年半の猶予にまでなったので、こうなると、約束手形みたいなもんです(笑)
実際、米切手は第三者への譲渡が許されていて、換金や第三者への支払いに充てることもでき、為替の代用みたいになっていたようです。

とまあ、近代的な金融技術の原型が次々に生まれ、米殻商業機構が形成されていったのが、中之島です。
そうなると、全国の米関係者が将来の米価の動きを予測するためにも、大阪の帳合米価格から目を離せなくなっていくわけで、こここそが商業の情報発信基地として、全国に名が売れていくことにもなります。

ソロバンだ和算だとなめてたら、エラいことになる。これって、もしかして世界最初の先物取り引きとヘッジファンドなんじゃ…。






蔵屋敷跡碑
大阪市北区中之島5-3-68(リーガロイヤルホテル横)
mapを見る




宇宙戦艦ヤマト、茶屋町に出現☆
ゴリモンさんのブログ「ゴリモンな日々」を見て、しまった!と思いました。
盆踊り、地蔵尊の追っかけにかまけて、宇宙戦艦ヤマトが大阪に来てるとは、完全にノーマークでした。。。


実写版「宇宙戦艦ヤマト」のプロモーションで、こないだまで阪急梅田のBIGMAN前に展示されていて、8/23〜8/27までは、茶屋町の毎日放送1Fで展示されてます。

僕が行ってきたのは、毎日放送のほう。


早速、古代進がお出迎えです(笑)
快く撮影に応じてくれて、かつ顔出しオッケーの快諾もいただいたけれども、あなたはいったい誰だ?(笑)

宇宙戦艦ヤマト


そして、なかに入ってみると、じゃーん! ヤマトです☆

宇宙戦艦ヤマト


正面から眺めると、かっこいい☆
波動砲が発車される寸前です。

宇宙戦艦ヤマト



甲板はこんなかんじ。
主砲はまだ取りつけられていないのかな。

宇宙戦艦ヤマト


僕は、年代的に、エヴァにもガンダムにもまったく思い入れがなく、やっぱ、ヤマトや銀河鉄道999などの松本アニメに思い入れてしまいます。

まあ、ヤマトの場合は、映画の製作の実権を握っていた連中が、戦争と戦闘にロマンを求める軍事オタク、軍人フェチみたいなもんだから、冷静に考えるとキライなんですが、なーんかね、抗えない魅力があるんですよね。幼少のころに刷り込まれたものがデカいんだろうな、きっと(笑)


さて、映画の公式サイトでキャスティングを見てみると、敵方、ガミラスの一群のキャスティングが発表されていないようです。僕の好きなドメル将軍は、誰がやるんだろうか?

個人的には、市川海老蔵が希望(笑)






映画「宇宙戦艦ヤマト」プロモーション展示
大阪市北区茶屋町町17-1 毎日放送1F アナリウム
展示期間 8/23〜8/27
HP http://yamato-movie.net/
mapを見る



今年の地蔵尊は、修験僧の行者、山伏と、ミナミの六地蔵をお詣りする
地蔵盆です。8月23日、24日は各地の地蔵盆のラッシュ。僕も、天満から梅田、中崎にかけての各地の地蔵盆をまわる計画を立てていたのですが、急遽、予定を変更して、北区の外に出てミナミの六地蔵詣りについていくことになりました。

ミナミの六地蔵、千日前、難波、日本橋、道頓堀エリア内の6つのお地蔵さんをお詣りするのですが、炎天下のもと、なかなかハードな体験でした。

今回、お誘いくださったのは、お知り合いの商店主で、かつ、修験道の行者さん、つまり山伏でもある方です。その方が、ミナミの六地蔵を詣るので、そのお供です。お供というかカメラマンというか、単に邪魔しに行っただけというか、とにかくまぜてもらったんですが、貴重な体験でした。

山伏というのは、まあ、山のなかをひたすら歩いて修行する、修験道の行者です。
奈良吉野の大峯山を代表に、熊野、大山、羽黒山など、日本各地の霊山と呼ばれるところにいらっしゃいます。
日本古来の山岳信仰が仏教、主に密教と混じり合ったものが、修験道。
奈良時代に成立したとされ、役小角(役行者)を開祖と仰ぐのですが、役小角はあくまで伝説的な人物です。
代表格は、やっぱ、空海、弘法大師ですな。
真言宗系と天台宗系とあるところからわかるとおり、空海や最澄が唐から持ち帰った密教がベースになってます。ベースというか、むしろ密教の周辺にあった雑密が、日本古来からあった山で修行する精神と結びついたものが修験道。すごく乱暴にいうと、そういうことになるかと思います。

頭に頭巾(tokin)、手に錫杖(shakujo)、麻でできた白い篠懸(suzukake)の法衣を着、袈裟をかけ、法螺貝を持ちます。天狗を思い浮かべてもらうとわかりやすいですね。あの格好。

もっとも、多くは、専門の僧侶というわけではなく、在家の信者が「講」を組織して、修行のときだけ山伏となり、普段は仕事を持つ社会人として働いてらっしゃいます。今回お誘いいただいた僕の知り合いの方も、普段は商店街でお店を営んでおられます。

でも、聞くと、修行は厳しいみたい。
真冬の1月に那智の四十八滝巡りとか、聞いただけで目眩がしそうです。2日間かけて、極寒のなか、那智の滝48ヶ所を巡りながら、滝に打たれるわけです。全身が紫になるらしいですね。滝から出てきて、誰かがタオルで身体を拭こうものなら、皮膚のダメージが強すぎて、飛び上がらんばかりの痛さだそうです。拭いてはいけない、タオルで押さえるだけ。…無理です、僕には!

熊野の山のなか、道なき道を2泊3日かけて往復する修行、奥駈け(okugake)も、よほどの健脚でなければ、ムリ。75kmとも100kmともいわれる、アップダウンが激しくて危険地帯も多い山の道なき道を、歩くんだそうです。夜、月明かり星明かりだけが頼り。ネパールの高地を歩いた経験はありますが、どうやらそれよりも全然キツそうです。…ムリです。

でも、山にこもって厳しい修行を行うことで、さまざまな験(しるし)を得ることを目的としているのが修験道でなので、それをしなければならない…。興味あるし、誘われてもいるんですが、よほどの覚悟が要ります!まずは、四国のお遍路さんからはじめたいじゃないですか!


さて、話はそれくらいにして、以下、今回の六地蔵詣りの写真です。
大阪を代表する繁華街を練り歩いているだけあって、素晴らしくシュールな世界が広がっています。聖と俗のコントラストのオンパレード!



まず最初、目指す先は法善寺の水掛け不動です。六地蔵詣りのまえに、地元のお不動さんへ。いきなりこの光景☆ のっけからシュールすぎます! すれ違う人、全員が写メwww

DSC07634六地蔵詣り 地蔵尊


水掛け不動さんで、法螺貝。法螺貝って、吹くのがなかなか難しいらしいです。

六地蔵詣り 地蔵尊


お坊さんもいらしていて、一緒に読経します。

六地蔵詣り 地蔵尊


そのあと、御堂筋に出ます。
山伏の行列の横にはミニスカートのおねえちゃん。なんともいえん、不思議な光景です。

六地蔵詣り 地蔵尊


道頓堀のところで、御堂筋を西に横断します。
ビートルズの「アビーロード」のジャケット…違うか(笑)

六地蔵詣り 地蔵尊


アメリカ村入口にある出世地蔵さんをお詣り。
アメリカ村に山伏! もちろん、コスプレではない。

六地蔵詣り 地蔵尊


アメ村に響きわたる法螺貝の音色。
晩年の忌野清志郎は法螺貝を吹いていたけれども、彼はアメ村で吹いたのだろうか?

六地蔵詣り 地蔵尊


道頓堀を再び東に向かいます。松竹座をバックにしたがえて行進する山伏。

六地蔵詣り 地蔵尊


道頓堀の西を望む。近代と原始が交錯する不思議な空間が現出しました。

六地蔵詣り 地蔵尊


「づぼらや」とコラボw

六地蔵詣り 地蔵尊


「金龍ラーメン」とコラボwww

六地蔵詣り 地蔵尊


無料案内所とコラボwww 聖と俗がコントラスト鮮やかに交錯する瞬間!

六地蔵詣り 地蔵尊


堺筋を抜けてさらに東へ。ここはすでにラブホ街。
行列の横を歩くカップルは何処へ…。

六地蔵詣り 地蔵尊


ついていくだけで精一杯だったので、もはやどこのお地蔵さんかわからなくなってますが、堺筋の東側、道頓堀を少し南にくだった日本橋界隈です。

六地蔵詣り 地蔵尊


歩きながら、お詣りしながらの法螺貝吹きは、思っている以上に重労働のようです。

六地蔵詣り 地蔵尊


こちらの地蔵尊では、冷たいものが用意されていました。
しばし休息をとる山伏。

六地蔵詣り 地蔵尊


ビッグカメラをしたがえる山伏の行列。
物質主義と精神主義、それぞれの象徴が交錯する時空☆

六地蔵詣り 地蔵尊


ビッグカメラ横にも、お地蔵さんがいらっしゃいます。
ここはかつて大火事を出した千日前デパートがあったところ。

六地蔵詣り 地蔵尊


お坊さんの読経も熱が入ります。

六地蔵詣り 地蔵尊


法螺貝は、彷徨える魂を鎮めるために吹かれます。この地は、彷徨える魂がたくさんいるらしく、吹くのにも熱が入ります。

六地蔵詣り 地蔵尊


吹きかたによって高低の音色を使い分けるのですが、それがまた難しい!

六地蔵詣り 地蔵尊


エヴァと山伏のコラボww この両者は、似ているかもしれませんな。

六地蔵詣り 地蔵尊


もうどこか覚えちゃいませんが、この路地の奥にもお地蔵さんがいらっしゃいます。

六地蔵詣り 地蔵尊


盛大に飾られた提灯の横に祠が祀られていました。

六地蔵詣り 地蔵尊


こうして見ると、法螺貝がほしくなっちゃいます!

六地蔵詣り 地蔵尊


もちろん、プリクラは撮りません(笑)

六地蔵詣り 地蔵尊



「自由軒」前を通過。こうして手をあわせる人もいらっしゃれば、法螺貝ウルセー!って罵声を浴びせる人もいて、さまざまです。さまざまだから、俗世はおもしろい☆

六地蔵詣り 地蔵尊


旧・精華小学校横のお地蔵さん。
壁を這う緑のツタが素敵ですね。

六地蔵詣り 地蔵尊


もちろん、ジャンカラには行かない。

六地蔵詣り 地蔵尊


道を極めているわけだが、もちろん、この「道」ではない。

六地蔵詣り 地蔵尊


道具屋筋の横にもお地蔵さんがいらっしゃいます。
こちらでは、大太鼓が置いてあったので、盆踊りも兼ねている模様。

六地蔵詣り 地蔵尊


長かったお詣りも、ここのお地蔵さんをお詣りして、六地蔵詣りは終わりです。

六地蔵詣り 地蔵尊


皆、雨に打たれたみたいに汗びっしょりになってはりました。
本当に、お疲れさんでした。

六地蔵詣り 地蔵尊




期待してたんだけど、今年はイマイチだったな。「手作りの夏祭り」
第2回手づくりの夏祭り 

昨年、阪急東通り商店街の若手有志が集まって結成している「ええやんか東通笑店会」の主催で、扇町公園で盆踊りが開催されたのですね。

そんときのエントリーは、こちら。

キャバ嬢+ドラァグクィーン+浴衣のオバちゃん+お子らが一堂に集まる超オモロい夏祭り「手づくりの夏祭り」開催!


んで、昨年行われたこの夏祭りが滅法おもしろくて、主催者の場所柄、ドラァグクィーンは出てくるわキャバ嬢は出てくるわ、とにかく盆踊りにはまったく相応しくないケバいのがたくさんいて、櫓を見ればウェスタンのバンドがライブしてたりで、それでいてちゃんと盆踊りも河内音頭もあって、こういうときになるとどっかからやって来る浴衣を着た盆踊り踊り隊みたいなオバサン連中も現れ、老若男女分け隔てなく楽しめるという、ボーダレス、シームレス、フリーダムなお祭りなのでした。

それが今年も行われる。
と、耳にしたのが7月の初めで、それ以来、あっちこっちでつぶやきまくって、楽しみにしておったのです。

で、迎えた8月22日、急ぎの仕事も入っちまっていたのですが、なんとかやりくりして行ってきましたですよ。

なんか、杜氏さんがお酒の解説してくれるとか、野菜とフルーツの10円市が開かれるとか、昨年にはなかったプログラムも用意されているとのことで、それはそれはね、楽しみにしていたのですよ。

そしたら…、
なーんかね、昨年みたいな楽しさはなかったなぁ。

時間帯が悪かったのかもしれないけれども、飲み屋のおねーちゃんらしき人たちは、今年はコスプレしてなかった。普通にTシャツ着て屋台に立ってはった。ドラァグクィーンもオカマちゃんも見かけなかった。

なーんかね、普通に、若い人たちが夏祭りを企画してやりました!ってノリで、あんまりおもしろくなかった。

行ったときには僕の大好きな河内音頭が演奏されていたんで、それはよかったんだけれども、それだと普通の盆踊りだし…。

第2回手づくりの夏祭り


ひとつよかったのは、屋台のレベル。

焼き野菜の盛り合わせ〜。

第2回手づくりの夏祭り


さんま〜。ハツモノですな☆

第2回手づくりの夏祭り


モツの串焼き〜。

第2回手づくりの夏祭り


こっちもモツ〜。

第2回手づくりの夏祭り


なぜか瀬戸物も☆

第2回手づくりの夏祭り

さすがに普段からお店を出している人たちだから、いいもん出してはります。よその盆踊りではあんまり見かけないようなものが多くて、これは楽し☆ でも、売ってはる人たちが普通のカッコだったのは、おもしろみ半減なのだが…。




何人か知り合いを見かけたけれども、みんな、口を揃えたように、今年はつまんないね〜、って言い合っていて、おなじ時間に行われていた西天満小学校の盆踊りに流れていったのでした。

まあ、来年、もっかいリベンジしてみるかな。



『ええやんか』東通笑店会 主催 第2回手づくりの夏祭り
大阪市北区扇町1-1 扇町公園
8/22開催
HP http://vitamin-bar.jp/
mapを見る



天満立ち飲みツアー note.009「お好み焼き つるや」- 美味くて安くてウンチクがなくて居心地がよくて肩肘張らないのが一番☆
お好み焼き つるや   

お好み焼きにこだわりがないわけではないけれども、なんちゅーか、お好み焼きくらいは肩肘張らずに、近場でサクッと食べたいです。

今日はお好み焼き食べるぞ!って朝からお好み焼きバージョンでテンション上げるとかじゃなくて、なに食べる?お好み焼きでも、くらいの心持ちで、フラッと立ち寄りたいもんです。

そーなると、味云々のまえに、家の近所にある、居心地がイイ、というのが必須になってきますな。

というわけで、お好み焼きを食べるときにいつも行くのは、ここ。JR天満駅の南側、天神橋筋商店街の東にある「お好み焼き つるや」です。

普通のお好み焼きさんの構え、店内も、お好み焼き屋さんか居酒屋か、というかんじです。肩肘は、まったく張らない。

お好み焼き つるや


えーっと、こう書くと、味はたいしたことないのか?と言われてしまいそうだけれども、そんなことは全然なくて、ダシの効いたお好み焼きは美味いしボリュームあるし、ひと通り揃ってるサイドメニューも、どれも美味い☆

僕の場合、もはや、注文する順番が決まっていて、

まずは、すじコン煮込み。これだけでビール、もとい、ご飯が何杯でもいけてしまう代物です。まあ、すじコンが美味い店にハズレはないですわな。

お好み焼き つるや


んで、その流れで、トン平焼きを注文。トン平焼きは…、豚と卵とソースのハーモニーが絶妙で、全然ひつこくないから、いくらでもいけます。すじコン煮込みとトン平焼きは、行けば必ず注文するな。僕的には黄金のセット☆

お好み焼き つるや


んでメインのお好み焼きに突入するんですが、すじネギ焼きにするときもあれば豚玉、モダン焼きのときもありで、気分で注文するけれども、どれ食っても美味いですわ。サクサクでフワフワしていて、ひつこくない程度の甘さを感じさせるソースが、滅法美味い☆

この日は、広島焼きをチョイス☆

お好み焼き つるや


最近ハマってるのは、豆腐を焼いたの。
これ、家でできそうだけれども、相当いい豆腐を用意しないと、焼いてるうちにグズグズに崩れちゃいます。

お好み焼き つるや

なんちゅーか、あたりまえに美味い!ってかんじで、いろんなウンチクがないのところがね、このお店のとーっても好きなところです。

もう食べるもんが固定されちゃってるんでなかなか次のメニューに行けないんだけれども、海鮮系も美味そう。貝柱、エビ、イカ、タコ…、どれも刺身で食べられるくらいのプリップリのを焼いてるのを目のまえで見てるんで、いつか食べないと。

お店自体は古くて、ん十年クラスなんですが、今は、息子さんが代を継いではります。天満生まれの天満育ちの息子さんなので、舌が肥えてはります。
ご自分が食べて美味いもんを出しはるんで、なにが出てきても信用できるんですね。だから、ウンチクとかまったく要らない。繰り返すけれども、そこが素晴らしくいいんですわ。まちがっても、○○産の〜、とか言わないもん。

ここにどっしり根を生やして営業してはるんで、美味いところもたくさん知ってはります。
そーゆーのを教えてもらう楽しみもあって、ここはほんとに居心地がイイです。

さらに、天満なんで、安い!
これだけ食べて、ご飯も食べて何杯か飲んで、2,500円で釣りが来ていたような…。
天満というところは、安くて美味くないとやっていけないエリアではありますが、そのなかでも、ここは超優良店だと思うな。

お昼もやってはります。
トン平焼きの定食が500円だったかな? とにかく、安くて美味い。かつ、居心地がイイ。









お好み焼き つるや
大阪市北区天神橋4丁目5-15
tel. 06-6351-3501
11:30-14:00 16:30-0:00
日休み
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【過去の天満立ち飲みツアー】
■天満立ち飲みツアー note.001「天満酒蔵」
■天満立ち飲みツアー note.002「天平」
■天満立ち飲みツアー note.003「墨国回転鶏Que Rico」
■天満立ち飲みツアー note.004「但馬屋」
■天満立ち飲みツアー note.005「奄美・島料理 てぃだ」
■天満立ち飲みツアー note.006「上海食苑」
■天満立ち飲みツアー note.007「マリンポリス天満駅前店」
■天満立ち飲みツアー 番外編「煮たり焼いたり」
■天満立ち飲みツアー note.008「裏HIROYA」
■天満立ち飲みツアー note.009 vol.2 「裏HIROYA」再び


川端康成が天満生まれやったとは知りませんでした
川端康成生誕碑


かつて僕が通っていた高校とおなじ学区の一番優秀な高校の出が、川端康成でした。
茨木には記念館もあるし、てっきり北摂の生まれ育ちだと思っていたら、天満の生まれだったのですね、川端康成。

天満宮の表門のまえの道を東へ少し歩いた四ツ辻の南西の角に、なかなか端正なたたずまいをした料亭、相生楼がありまして、行ったことはないのだけれども、店のまえはしょっちゅう通っているくせに、そこに生誕の碑があることなんぞ、あるよ、と、教えてもらうまではまったく気づかなかったのでした。

相生楼の門の右脇に、川端康成の生誕碑があります。

「伊豆の踊り子」「雪国」などの名作で、日本的叙情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968年)に日本人では初めてノーベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899年)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。

と、碑文にはあります。

つらつらと調べてみると、ここはかつて北区此花町1丁目79屋敷という地名で、ここは、近松門左衛門の「心中天網島」で小春と治兵衛が道行きした道筋にあたってます。川端康成が生まれたところが、そんなふうに文学的な縁のある地と重なっているのは、まあ、偶然としか言いようがないですが、ちょっと奇妙な縁を感じますな。

ほいで、かの地で川端家はなにをやっていたのかというと、医院です。お父さんの栄吉が、医者でした。
といっても、代々この地で医院を営んできたというわけではなくて、最初は北堀江、そっから安土町に移って、此花町のこの地。お客、というか患者がさっぱり来ずで、全然流行らんかったんで、場所を転々としていたんやそうです。
そのころの大阪は不景気のまっただなかで、不景気になると医者に行かんと我慢する人のほうが多いのと、栄吉自身が肺結核にやられてたんで、そら患者も来ません。
康成生後1年経つか経たないかのころに、天満のこの地を去って、転々を繰り返してますから、生誕の地といっても、生まれただけ、と言ってもいいのかもしれませんな。

川端康成は、両親を幼いときに失い、たったひとりの兄弟であった姉も10歳のときに亡くなり、天涯孤独の身になります。母方の実家や祖父、伯父に助けられて、東京の一高、東帝大(現、東大)に進むわけです。

幼くして死に別れを経験してるのだから、激しい慟哭もあったとは思うんですが、彼の作風からは、そういったもんは微塵もないですな。

「油」という短編があって、そんなかに、幼少時代のことが少しだけ触れられています。

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父は私の三歳の時死に、翌年母が死んだので、両親のことは何一つ覚えていない。母はその写真も残っていない。父は美しかったから写真が好きだったのかもしれないが、私が古里の家を売った時に土蔵の中で、いろんな年齢のを三四十種も見つけた。そして中学の寄宿舎にいた頃には一番美しく写った一枚を机の上に飾ったりしていたこともあったが、その後幾度も身の置きどころを変えるうちに、一枚残らず失ってしまった。写真を見たって何も思い出すことがないから、これが自分の父だと想像しても実感が伴わないのだ。父や母の話をいろんな人から聞かされても、親しい人の噂という気が矢張りしないので、直ぐ忘れてしまう。

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慟哭を覚えるのには、まだ自我が芽生えてなかった、ということなのかもしれません。
それよりもむしろ、最初からあったであろう喪失感が、のちの文学的な美の達成に繋がっていったんではなかろうか、と、思ったりもします。


谷崎の絢爛さとはまた違った、詩情溢れる美しい言葉が連なる、繊細な表現ばかりです。太宰のようなニヒリズムもない。息を飲むような美しさの連続です。




碑文には、「短編の名手」とあります。
「日向」という短編が僕は好きで、何度読み返したかわからないほど。
川端自身とおぼしき人物が、初恋の少女の話に交えて、べっぴんさんを見かけたときには無言で凝視してしまう癖があることについて、つらつらと語っている、そういう掌編です。
ほとんどヘンタイさんの域だけれども、これがまた美しいファンタジーに仕立て上げられてて。。。。








川端康成の生誕之地 碑(相生楼前)
大阪市北区天神橋1-16-12

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ピアノビル
ピアノビル

ビルが壊されたり店が閉店になったりすると、そこが以前なんだったのか、ソッコーで忘れます。
まーったく、思い出せない(笑)
自分の脳内の記憶のメカニズムになにか欠陥があるんではなかろうか、と、疑ってしまうことしょっちゅうです。

でも、これは覚えてる!
このビルの壁は、先週まではピアノじゃなかったぞ!
先週までは、普通にブラウンのベタ塗りの壁だったぞ!

覚えていてあたりまえか(笑)


でもこのピアノ、実際に弾けたりしたらスゴいことになると思う。思うけれども、そうするとうるさいから、やっぱり弾けなくていい。

ちなみにこのビルは扇町公園の南側にあって、「扇広ビル」という、ごくごく普通の飲食兼雑居ビルです。




扇広ビル
大阪府大阪市北区末広町3-29
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