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大正モダンの一瞬の煌めき、プラトン社の「苦楽」の挿絵原画を見る
「苦楽」


「プラトン社」という出版社をご存知か?
大阪に6年間だけ存在していた、幻の出版社です。

1922年(大正11年)で設立され、彗星のようにして現れた出版社です。

このプラトン社は、化粧品会社の中山太陽堂を後ろ盾にし、女性を読者層に狙った斬新な文芸誌を引っさげて登場したのですよ。
1922年(大正11年)5月に「女性」、1923年(大正14年)12月に「苦楽」が創刊されました。産声を上げた場所は、大阪の谷町5丁目。

執筆者がすごくてですね、泉鏡花、大佛次郎、谷崎潤一郎、武者小路実篤、与謝野晶子ら、耽美派から自然派まで、大正モダンを代表する人たちが執筆しているのですね。
会社の運営には、当時の演劇界に新風を吹き込んでいた小山内薫、編集には直木三十五、川口松太郎らが携わっていました。デザインは、山六郎、山名文夫、岩田専太郎…、いわゆる大正モダニズム、阪神間モダニズムを引っぱった逸材ばっかりです。

最初からこんなすごいメンツが集まったわけではなくて、きっかけは、関東大震災です。
プラトン社設立2年目の1923年(大正12年)、関東大震災が起こり、東京の文士たちが大阪に流れ込んできたのですね。
そんときに、中山太陽堂の社長にしてプラトン社の後ろ盾でもあった中山豊三が、タニマチ精神を発揮して、莫大なおカネを突っ込んで彼らの作品を買い、生活の面倒を見ていたといいます。
その流れで、プラトン社に、多くの文化人、文士が流入していきます。
おかげで、当時、大阪が日本文壇の中心になっていたようですね。

創刊された「苦楽」という雑誌は、雑誌名がすごすぎますが、これ、小山内薫が「life」を和訳したものです。
直木三十五は「苦楽」で自身最初の小説を発表しているし、それが菊池寛の目にとまって「文藝春秋」で執筆するようになり、最後には自身の名を冠した直木賞が創設されるまでになります。

さて、東京の復興が急速に進むと、多くの文士は東京に戻り、大手出版社が大部数の大衆向け雑誌を刊行しはじめたこともあって、プラトン社の経営は次第に逼迫していきます。
出版活動を停止したのは、設立から6年後の1928年(昭和3年)。

一瞬の煌めきのような出来事だったのでした。


天神橋筋商店街3丁目の関西大学リサーチアトリエにて、雑誌「苦楽」の総絵原画が展示されていたので、間隙を縫って、サクッと見に行ってきました☆

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」

「苦楽」




プラトン社 雑誌「苦楽」総絵原画展
7月2日〜3日 10:00-17:00
関西大学リサーチアトリエ
大阪市北区天神橋3丁目9-9


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関西大学リサーチアトリエ

HP http://www.kansai-u.ac.jp/rakusai/




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