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天神橋4丁目の「錦地蔵」と「西喜橋」から、このあたりの地名を眺望する
錦地蔵 

JR天満駅から少し南に下ったところ、商店街のはずれに、お地蔵さんがおわします。

そのお地蔵さんは、ラブホ&飲屋街のど真ん中に祀られていて、聖と俗が混在する、なかなかに汎アジア的な空間でもあります。

たらふく酒を仕込んでヨイヨイになった人が、ここのお地蔵さんのまえでパンパンと手を合わせてお賽銭を投げていく姿は、日常的にありふれた光景でもあります。

いつもキレイに手入れされているのは、保存会が結成されているからで、常、手入れされている賜物ですね。感謝☆

こちらのお地蔵さん、錦地蔵と名付けられています。

今でこそ、このあたりの地名は天神橋4丁目なのだけれども、かつては、錦町という町名でした。
だから、錦地蔵。

祠のまえに、石碑も建てられてます。

錦地蔵


ちなみに、今、錦町という町名は、ここから少し北へ行った、JRのガードの北側のわずかな場所(正道会館のあるあたり)に、残っています。
かつては、現在の錦町からずーっと南側までの広大なエリアが、錦町でした。

詳しい年代がわからないのだけれども、戦後からこっちのどこかで、何度か、町名変更や町の吸収合併が繰り返されました。
かつての広大な錦町から、南側が分離して、錦町と南錦町にわかれます。
その後、両町の大部分は、天神橋4丁目に組み込まれました。
現在、錦町は、ほんとに小さな小さなエリアです。むしろ、天神橋4丁目に組み込まれることを拒んだかのように。
事実、その一角だけが拒んだから、という話も、耳にしたことがありますわ。
その一角には、かつて力のあった市会議員さんのご自宅があり、その市会議員さんが、どうしても錦町の名前を残したかったから、そこだけは町名として残った、なんて話もあります。その、かつて力があったといわれている市会議員さんのご自宅は今もそこにあるので、あああそこか、と、わかる人はわかるかと。


さて、この錦地蔵の祠と並んで、すぐ横に、「西喜橋」という跡碑が建っています。
お地蔵さんのあるところから少し南へ下ると、阪神高速の下に出ます。そこは天満堀川が流れていたところです。

西喜橋


1838年(天保9年)、大塩平八郎さんが大暴れしたあと、被災者救済やら失業者対策の一環として、堀川を延伸させる工事が行なわれ、ここは水路でした。

その水路も、1972年(昭和47年)には、交通対策を目的として、すべて埋め立てられます。
天満堀川にはたくさんの橋が架かっていて、今でも名残を残している有名どころだと、天神橋筋商店街の3丁目と4丁目のあいだ、ミスドがあるあたりに、夫婦橋があります。もっとも、道路を横切るだけなので、橋という趣はまったくないけれども、夫婦橋がそこにあった、というモニュメントは、今もあります。

というふうに、たくさんの橋が架かっていて、それらの橋は、古い地図にしっかりと名前が載っているのだけれども、「西喜橋」というのは、どの地図を見ても載ってないですね。
でも、今、60歳くらいになる人たちは、幅2mくらいの車がやっと通れるくらいの橋があったわ、と、言います。たぶん、それが西喜橋です。
古地図に載ってないので、もしかしたら、誰かが勝手に架けた、イリーガルな橋なのかも知れませんな(笑)

お地蔵さんは「錦地蔵」。
橋は「西喜橋」。

漢字は違うけれども、どちらも「にしき」ですね。

悪い印象を与える字をいい印象を与える字に変える好字化は、ときどき行なわれます。
「梅田」もかつては「埋田」と書いてました。
だから、そういう好字化がどこかで行なわれたのかなとも思ったのだけれども、「西喜」って、そんな悪い字じゃないし、なにがあったんでしょうね?

そもそも、西に喜びがあるとするのなら、視線の中心が東側にあるはずで、でも、東側には源八橋やら桜ノ宮がある程度で、目立ったものがあるわけではないです。
錦もね…、なんで錦なんでしょうかね?

ひとつ、仮説を立ててみました。

すぐ近くに扇町公園があるのだけれども、あそこは、かつて、監獄でした。
1882年(明治15年)、大阪監獄署(通称、堀川監獄)がそこに建てられたのですね。今の扇町公園とほぼ同じくらいの規模です。政治犯やら重犯罪人が投獄されていて、泣く子も黙る、と怖れられた監獄やったそうです。
1920年(大正9年)に、堀川監獄は堺に移転し、今もある大阪刑務所になります。
その跡地に扇町公園はできるわけですが、今の扇町公園ほどの規模ではなく、もっともっと小さかったといいます。

監獄ができたときにも、町名変更というから、新たな町名が出現してます。
監獄のそばのエリアに、新たな町名が出現しました。
それが、「扇町」「末広町」
このあたりの土地は、そのむかし、「堀川堤」「川崎領」と呼ばれていました。天満堀川が開削されたときに、その名がつけられたのでしょうね。それ以前は、「野畠」
刑をすませて社会に送り出すときに、二度とここへ戻ってこないようにと監守が念じ、めでたく送り出す意味で「扇町」の名がつき、そのすぐ横のエリアは、末広がりの意で「末広町」の名がつきました。

と、錦町からほど近い扇町公園周辺にはそのようないわれがあるのだけれども、こうなると、「錦町」も、そこに乗っかりたくなってきます。
どうやら、かつては「西喜町」と書いたそうです。
でも、そばに堀川監獄ができて、錦を飾るように、というほどの意味を込めて、「錦町」と字面を変えた、というのが、僕の仮説です。

さあて、どうでしょうか?




錦地蔵
大阪市北区天神橋4丁目







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