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【改訂版】TJWKモチーフサーキット後半 草郷孝好先生のお話「水俣、木沢に見る繋がりの大切さ」
6月4日(土)、3.11で傷ついた被災地をニットで繋いで支援する「Think Of JAPAN While Knitting」の関西での第1回目のモチーフ・サーキットが天神橋筋商店街の3丁目にある関西大学リサーチアトリエで開催されたのでした。

で、そのときに、関西大学システムデザイン専攻教授の草郷孝好先生に、お話をしていただきました。
草郷先生は、水俣病でダメージを受けた水俣が取り組んできたことや、そのことが先の新潟中越地震においても適用されていることなどを研究しておられ、そこに「繋がりの大切さ」を見ておられます。
僕たちの活動も「繋がり」を大きな柱としているし、先生のお話は、今回の東日本大震災の復興においても役立つものだろうし、ぜひ!とお願いして、お話をしていただきました。

お話はやはりとても興味深いもので、しかも、30分の予定を大幅に越えて1時間強も話していただき、それはそれは素晴らしい講演となったのでした。

おわかりだと思いますが、僕のことだから、お話の中身を詳細に書いてエントリーしたのですよ。
そのエントリーは、メールやtwitterを通じて、さまざまに反応がありました。
で、そうしたメールやtwitterを読みながら、ちょっと悦にも入りながら、ある日、自分が書いた件のエントリーを読み返していました。

すると、だ。
あれ?と。
えーっと、僕は、この回のエントリーを書くとき、草郷先生の長いお話を詳細に思い出しながら、可能なかぎり、メモにして書き出しました。メモなので、箇条書きにしたところもありますが、すべて、草郷先生の生の言葉を、僕の記憶を頼りに、そのまま羅列したものです。
その後、メモを元に、自分の言葉で再構築し、なにがしかの自分の言葉も挟み、エントリー記事を仕上げたのでした。
その、仕上げたものをアップした、つもりでした。
が、なんと!読み返してみると、アップされているのは、下書きであるメモではないですか!
あーっ!と頭を押さえても後の祭り。。。本チャン用に仕上げたものは、すでにゴミ箱からも消え去ってしまっています。。。

さてどうしたものかといろいろ思案したのだけれども、やっぱ、もっかい書き直して、アップすることにしたのでした。
だって、せっかく素晴らしいお話を聞いたのに、そこに聴衆である僕の言葉が入ってなければ、それは単に草郷先生のお話を垂れ流しただけではないですか。
お前はオレの話を聞いてなにも思わなかったの?と、もし言われたとしたら、返す言葉がないじゃないですか。
それは余りにも失礼だし、やっぱ、ちゃんと書き直そう、と。

ということで、数日前のエントリー(あえてリンクはならない…)の改訂版です(笑)

ご覧になる方にとってはバカバカしさの極みかもしれませんが、まあ、気が向いたらお付き合いくださいませ。
長くなるけどね(笑)

ではいきます!



【震災が起こった直後に考えたこと】

Think Of JAPAN While Knitting 関西

草郷先生のお話は、まず、震災が起こった直後の、先生を取り巻く情景からはじまりました。
3月11日の14時46分。
そのとき、先生は7階の研究室にいたそうです。ふわーんふわーんという揺れを感じ、慌てて外に出てみると、おなじように外に出てきた人がたくさんいて、皆で顔をあわせて、地震だよね、と、言い合っていたのでした。
テレビがないのでネットの速報を見てみると、震源地は東北で、しかも津波が来ている。
先生はそのとき報告書の作成に追われていて、死ぬほどワープロを叩いていたのだけれども、報告書のことは一瞬にして頭から消え、まず家に帰ろう!と思われたのでした。そして、その場ですぐに家に帰られた。

それから長い一日が続いていくわけだけれども、しばらくのあいだ、先生は、沈黙していたそうです。

まちや村が一瞬にしてなくなる、家族や知り合いを突然失う…、戦争もそうだけれども、こんな悲劇があっていいのかということに、いい知れぬ、底知れぬ無力感に襲われていたといいます。悲劇の大きさに、圧倒されていた、と。
原発については、若いころに原発が抱える問題に対峙されていたこともあって、それがじゅうぶんにできなかったという悔しさ、自責の念、怒りなどが混在していたと、おっしゃっておられました。

先生は、祈っていたのだそうです。
クリスチャンでも敬虔な宗教信者でもないけれども、物事がポジティブに動いていくよう、ひたすら祈っていた、と。

おなじように、僕も、当時の様子を思い出していました。
お話を聞いていた誰もが、それぞれの固有の物語を、思い浮かべていました。

ネットを常時接続するなかで仕事や生活をしている僕は、ネットを通じて、圧倒的な情報にまみれていました。
リアルタイムで変化していく、無数の場所から飛び込んでくる情報をまえに、すぐに自分ができることに着手しました。
阪神大震災のときのことが瞬時によみがえってきて、なによりも情報を、可能なかぎりの役に立ちそうな情報を集め、その真偽を可能なかぎり精査しつつネットにアップし続けていました。
特に、外国人や身障者など、情報弱者となりかねない人たちに向けて、ブログ、twitter、skypeを通じて、門戸を開放して、やってくるコンタクトをすべて受け付けていました。

長い時間、僕はそうした時間を過ごしていました。

でも、ネットというのは厄介なもので、四六時中、震災の情報に接していると、入り込んでしまいますね。
入り込んでしまい、心を相当、やられました。
その後、僕は、徐々にペースを取り戻し、日常に戻っていきました。自分がすべきこと、できること、できないことをキッチリと分け、日常のタスクを粛々とこなしていくことで、ヤバい場所から戻ってきました。

僕は饒舌になり、草郷先生は沈黙された。
アプローチは違ったけれども、僕も、祈っていました。
圧倒的な悲劇をまえに、無力さを知らされて、祈るしかなかったようにも思います。

先生は、その後、人が生きていくうえでなにが必要なのかということを、深く考えていたといいます。

衣食住が満たされる生活は重要だけれども、これはとてつもない奇跡によってつくられているのだということも、見えてきました。
通信技術が発達して、この震災は一瞬のうちに世界中にひろがり、世界の距離はそれだけ近くなったともいえるけれども、おたがいがおたがいのことを理解しあうということはまったくべつのことなのだということも、わかってきました。

そういうことを考えていたとき、先生の頭のなかに、自然と、素敵な人たちの顔が浮かんできたのだそうです。
浮かんできた顔は、これまで先生が触れ合ってきた、水俣や新潟、ブータン、ネパールの人たちの顔、素敵な顔、こういう人たちっていいな、という人たちの顔です。

そんな顔の持ち主たち、水俣の人たちの話が、ここから展開されました。



【不信社会だった水俣】

水俣という言葉は、少なくとも僕の年代とそれ以上の人たちは、ほぼ全員が知っています。もちろん、水俣病に見舞われた場所として。

むかしの水俣は、キレイな海があって、海辺のまちで、まちを挙げてボートレースを行うような、素敵な場所だったそうです。
また、水俣は、山間のまちでもあります。水俣は、海辺だけではなく、水俣川の上流から下流まででつくられているまちで、キレイな山間がたくさんあります。
知っているようで知らないことというのは、多いですね。水俣と聞いて、僕は海しか思い浮かびませんでした。でも、水俣は、山間のまちでもあるのですね。

そういうスライドを、何枚も見せていただきました。

Think Of JAPAN While Knitting 関西


その後、水俣には深刻な「人災」がありました。水俣病です。
チッソという工場から海に垂れ流された水銀汚染で起きた中毒で、治療法はありません。
明治後期から、戦中、戦後と長きにわたった産業開発、豊かな生活を実現することが日本中のトレンドだった時代の、水俣は犠牲です。

工場から水銀が海に垂れ流され、水銀を食べた魚を人が食べ、そのことで水俣病が発生しました。
この病気は神経にダメージを与え、深刻なものだと、自分で思うように身体を動かせなくなります。深刻ではない状態のものは、視野が狭くなったりします。
1956年、公式に水俣病患者が確認されました。でも当時は、原因不明の奇病です。原因が認定されたのは12年も先のことだけれども、原因は、じつは発生当時にほぼわかっていました。

水俣病患者とチッソは、当然、対立しました。
でも、ややこしいのは、たとえば親戚内にチッソやチッソ関連の会社に勤めている人がいて、チッソがつぶれたら生活に困る人がいるわけです。
さらに、水俣市の税金の7割近くがチッソ関係からのものでした。
当時のスライドを見せていただくと、チッソ工場のすぐ隣に駅があり、まちの一番いいところに工場がありました。
そんな状況のなか、水俣病患者とチッソの対立は、家族内やコミュニティ内にも持ち込まれていきます。
風評被害もありました。
海のものにかぎらず山のもの、農作物までもが、水俣産というだけでまったく売れなくなりました。
さらには、水俣出身だとは決して言えない時代もありました。
伝染する、と言われたのです。水俣病は伝染しません。水銀中毒です。でも、そう言われ、水俣出身だとは決し口にできない時代が、ありました。
引っ越しもし、人口も減りました。

おたがいが信用できない、「不信社会」のまちになってしまった。それが、水俣病に見舞われたまちでした。

そんな水俣が今、じつは、環境モデル都市に選ばれています。
2008年、全国で6つしかない環境モデル都市に、水俣は選ばれています。

水俣が? 僕だけではない、お話を聞いていたほとんどの人が、ビックリした顔をしていましたね。

なにがあったのでしょうか?



【水俣の地元学】

1990年代、水俣は変わったのだそうです。

キーパーソンとなったのは、当時の市の職員である、吉本哲郎さんです。
勤務評定に照らしてみると、彼は相当な不良職員だったそうですが、そういう人の居場所があり、やがてはまちの再生の中心人物になっていくというのは、なかなか興味深いですね。

吉本さんは、水俣の地元学、というものの生みの親なのだそうです。
これは、地元の学問という意味ではなくて、「地元に学ぶ」というほどの意味です。
もっとも、アイデアの元は、吉本さんのみならず、水俣病患者の杉本栄子さん、当時の市長の吉井正澄さんほか、彼のむかしからの仲間たちでした。

どのようなことが行なわれたのか、そのすべてを詳細に記すのには時間が足りないので、いくつかのトピックをかいつまんで紹介していただきました。

「人様は変えられないから、自分が変わる」(杉本栄子さん)
杉本さんは、水俣病になってもっとも虐められた人です。もちろん、なにもしてくれない行政やまちを憎んでいた。でも、杉本さんは、自分からまちとの向き合い方を変えないとなにも変わっていかないと、決意をされました。

「海ん者と山ん者がつながれば、まちはどうにかなる」
川で繋がっているまちがちゃんと繋がれば、まちは再生するんじゃないのか?

「もやいなおし」
不信社会のなか、役所はなにもしてくれず無視してきました。
でも、吉井市長が市長になって2ヶ月目に、いきなり謝罪し、慰霊式を行なった。もやい直しという言葉で、おたがいのことを理解することで、舫を直す、心と心の繋がりをつくっていこうと彼が宣言したのでした。

「行政参加」
役所が設計したものに、どうですか?と声かけて参加してもらう市民参加ではなくて、地元のみんながやることに行政がどうバックアップできるのかを考えていこう、という考えです。


杉本さんの行動には心底心を打たれるものがあったけれども、僕の心に引っかかってきたのは、「行政参加」です。
僕も地域と連携しながら仕事をするようになって、行政とのかかわりが増えてきましたが、いつも思うのは、僕たちがなにかをするとき、僕たちだけの力ではできないことを行政に補ってほしい、というものです。その意味で、僕は、ずーっと、市民参加ではなく、行政参加を言い続けています。
また、行政参加という言葉こそないけれども、そうした流れは、大阪市ではすでにトレンドにすらなっています。
でもね、行政が必然として持っている性癖なのかもしれないけれども、彼らに参加や応援を請うたとき、ややもすれば、彼らの意に添うようにコントロールされかねない危険も、同時に潜んでいます。
少なくとも、そのように感じる場面が、僕にはいくつかあります。行政参加ならぬ、行政支配。

そんなこともチラと思いながら、草郷先生による水俣の事例紹介をうかがっていました。


【水俣市頭石の奇跡】

水俣に、頭石というまちがあります。かぐめいし、と読みます。絶対に読めません(笑)
ここは、誰も行かないまち。お葬式など、行く理由がなければ誰も行かないまちだそうです。水俣でも、名前すら知らない人も多い。若者は都会に行ってしまう。そういうまちです。

そんなまちで、住んでいる方の何人かが、なんとかしないと、と思ったのでした。
でもアイデアもなければカネもない。そこで、役所に行って、なにかやってもらうと思い、行ってみたのだそうです。正直、補助金やなんやらのおカネをアテにして、行ってみたのでした。

すると、オカネはないけれども、「元気村づくり条例」というものがあるよ、と。
村まるごとを博物館にしてみて、観光客を誘致してみてはどうか、と。
アテにしていたおカネは出てこず、不思議なものを勧められたのでした。ま、相手が悪かったですね(笑)

おもしろそうだけれども、よくわかんないし…と、不安やらなんやらが入り交じっているとき、「いやなら、いつでもやめていいから!」と言われて、やることになったのですね。
いやなら、いつでもやめていいから!って、すごいですね。僕の経験から言って、行政って、そんなこと絶対に言わない(笑)
ほら、おカネをもらっちゃうとキチンとやらないとダメだというプレッシャーがあるけれども、やめてもいいから!というひとことは、デカいですよ。事実、このひとことは大きかったようです。

この条例に基づいて、まちの人たちから、8人が生活学芸員に選ばれたのでした。
彼らが、訪れる人たちに、地域を案内します。
心得がひとつだけあって、それは、
「なんにもありません、たいしたもんはありません」は絶対に言ってはいけない
というものです。

外から訪れた人が、頭石を1時間ほど歩き、わからないことを聞き、生活学芸員の方が説明します。

頭石には、
まちの名前の由来となった石があります。
縄文時代の遺跡、お寺、湧き水、養蜂箱なんかがあります。

そうしたものを、生活学芸員が説明するわけです。
このやりとりが、じつにいいんですね。
都会から来た人は田舎の珍しいことをたくさん学べるし、学芸員の皆さんは、自分のまちのことを、外からの、違う視点で見ることができ、新たな発見に繋がります。
そうやって、人と人が繋がっていきます。
リピーターもたくさんいて、国内外から、なんと3,000人以上の人が頭石を訪問するまでになりました。
今では、高校の修学旅行先にもなっています。
場所のいいですけど、人がいいんですね、きっと。

僕的にキモだったのは、自分たちの土地のことを調べたり、外の人にお話したり、外の人とやりとりすることで、自分たちの土地の新たな発見がある、ということです。

以前、天神橋筋・中崎町界隈 古書店マップをつくられた関大社会学部院生の松岡クンにお話を聞いたとき、地図をつくることは地域イメージを再構築するきっかけになったり、新たな繋がりが生まれて地域の共同性を高める役割を果たす、ということを教えてもらいました。

そんときのエントリーは、こちらです。

http://kita-ku.jugem.jp/?eid=679

この話に繋がるものがあって、生活学芸員にしても地図にしても、外からやってくる人たちのためにつくられたものが、じつは、自分たちを見つめ直す役割をも担っている、ということです。
このあたりのことは、まちづくりにかかわっている人たちにとっては、とってもスリリングな話だと思います。

さて、女性グループは、加工所を立ち上げました。
地元で採れる農産物をつかって、お弁当をつくり、売ってます。そうやって、ビジネスにしようとしています。
また、ここは村まるごと博物館ですから、博物館料というのがとれるんですね。その一部は、地域のおカネになります。
学芸会もやるんだそうです。
出しもののシナリオをつくるときに、地元の歴史を調べ、地元に残っている踊りをシナリオに組み込んだとのこと。
そうやって出しもののなかに地元の踊りを組み込むことで、子供たちに文化を伝えていくこともできます。

頭石のこうした事例は、今、国内外で関心を集めていて、農水省の「活力ある村、まち」賞に選ばれました。
この地元学は、もはや、水俣の外にもひろがっていっています。

地元の人が主役になって、地元に根を生やし、地元を大切にし、知恵を使って、工夫していくのが楽しい。
地元の仲間との繋がりを大切にする。
地元の外の人との繋がりができることで、外からの見方がわかる。
地元学には、そうした効果があるようです。

素晴らしい事例を紹介していただきました☆



【新潟中越地震に見舞われた木沢集落の例】

ここからは、震災のお話です。
震災といっても、新潟中越地震のお話。

2004年10月23日、新潟中越地震は起きました。
震源地に近い木沢集落という山間の集落は、大きなダメージを受けました。半壊、全壊がほとんどです。
村に残るか出ていくのかが差し迫った問題であると同時に、高齢者が多く、生活の弱さを抱えた人が多い場所です。
結果的には、半数の人が離れました。

でも、地震はマイナス面ばかりではなかったようです。

震災でメチャクチャになった道を、自分たちで直していくとき、当然のことだけれども、土木作業や重機が大活躍するわけです。大活躍するおかげで、3K、出稼ぎの象徴でしかなかったこれらの仕事が、見直されたのだそうです。

さらに、60歳を過ぎた人が、「木沢のお年寄りが元気ならいいんだ」と口にする。復興に向けて皆が助け合っていくなかで、そのような周りへの気遣いができるようになったといいます。
これ、心底素敵な話だったなあ。

自分たちで立ち上がっていこうと、「フレンドシップ木沢」というグループができました。これも、地震が起こらなければ、あり得なかったグループなのだそうです。
たとえば、Hさんは、村のことなどどうでもいいと考える会社人間だったけれども、震災後、集落の繋がりの大切さに気づいて、再生のために身を粉にして働くの楽しくて仕方がない、というふうになりました。生きかたが、変わった。
そういう人たちが何人もいて、「フレンドシップ木沢」ができたのだそうです。

地震をきっかけに、隣接する村同士の交流も再開されました。
かつては、木沢の集落と周りの集落が協力して、大きな盆踊りが開かれていたのだそうです。
でもそれは、いつしかそれぞれの集落で独自に盆踊りが行なわれるようになっていったのでした。
そんな盆踊りが、震災のせいで、ひとつの村で行なうことが不可能になり、そういえばむかしは合同でやってたよね!という記憶がよみがえり、20村郷合同の盆踊りが再開されたのでした。
地震があったからこそ、の出来事ですね。
かつてそうであったように、盆踊りで出会った男女が恋仲になり…、なんてことも復活するかもしれません(笑)

地面にはヒビが入ったけれども、そのヒビによって、近所の繋がりの大切さ、その力のすごさに気づいた。
これが、木沢集落の例です。
繋がりの大切さ、という点は、水俣そっくりです。

木沢には、学生や若者のボランティアがたくさん入りました。
でも、訪問すると、木沢の人たちの生きかたから、自分たちの生きかたを考え直すきっかけをもらってくるようです。
そこに住み込んでしまう学生、何度でも足を運ぶ若者。なかには、名誉村民に選ばれたりもしています。20歳代の名誉村民(笑)
ボランティアに行ったはずなのに、逆に元気をもらってくるんですね。

僕も、阪神大震災以降、長田のオジィやオバァたちと触れ合うことで、まったくおなじような経験をしているので、この気分はとてもよくわかります。

結局のところ、木沢には、木沢を創ってきた生きる達人がいる、ということです。
バイタロジーがハンパなくて、生きる達人。

草郷先生のスライドに登場した90歳オーバーのオジィは、とても90歳には見えなくて、畑仕事の現役で、魚の養殖もされているとのことです。顔もよければ、笑顔も素敵です。

地震でダメージを受けたけれども、みんな助け合ったり、繋がりを生かしているまち、それが木沢です。



【復興の主役は誰なのか、復興の意味は?】

支援金が大きくなれば、復旧の可能性は高まるでしょう。でも、それは、必ずしも復興や再生を意味しません。

復興の主役は誰なのか、復興の意味は?

地元の人が主役だけれども、押しつけにならずに繋がれる地元の外の存在はとても大切で、その繋がりかたは、相手を支配、強制、矯正するのではなにも生まれない、ということです。
向き合いかた、というものを、草郷先生の今回のお話からは、学んだように思います。

相手の見方には必ず一理あるということを受け止めれば、おたがいになにかを触発され、なにかを生んでいく。
マイナスをプラスに変える、マイナスの状況からプラスななにかを見つけ出すことが、キモ。

地元学には吉本さんの言葉「ないものをねだらない。あるものから探す」という言葉があるのだそうです。
この言葉は深く、手元に置いておかないと忘れてしまいがちになる、大切な言葉だと、僕は思います。

最後、
水俣の海に浮かぶ夕陽と、海上を走る船からの眺めを見せていただきました。
水俣の海、今、キレイな海です。珊瑚もいるのだとか。

東日本大震災で傷ついたすべての被災地の未来も、このようなものでありますように。
ひとりひとりは小さな力だけれども、繋がりを持って、長くかかわっていきたいと思っています。

僕は、まちづくりにおける「地域」という言葉は、何丁目の何番地というようなことではなくて、コミュニケーションの渦のことなのだと思っています。
でなければ、繋がりが生まれてきません。
僕は、そのように思っていて、というか実感していて、水俣や木津の事例を紹介してもらった今回、やっぱりその意を強く持ちました。


草郷先生、ありがとうございました。








ふう。
ごくごく私的リベンジ、書き切りました(笑)

これで、次に進めます。
あー、喉のつかえがおりました(笑)

では。

そして改定前のエントリーにも載せたけれども、再び、講演終了後にモチーフ編みに挑戦してくれた草郷先生のお姿を☆

Think Of JAPAN While Knitting 関西


この写真、好きなんですよね。
素敵な学者さんはどなたもそうなのだろうけれども、本質の周囲にまとわりついている、偏見めいたことには、とんと興味がないようです。
偏見と偏見でないものを峻別して、偏見を一気に突き抜けて本質に辿り着く眼力を備えていることは、素敵な学者さんの必須条件なのだと、草郷先生を見ていると思います。

男が編みものだなんて!ってな発想は、微塵もなさげで、飲みにでも誘われたくらいの気分で、ニットにチャレンジしてはりました。

素敵です。






Think Of JAPAN While Knitting 関西
HP http://atricot.jp/tjwk/

第1回モチーフサーキット
日時:6月4日(土)10:00-17:00
場所:関西大学リサーチアトリエ
参加料:無料

後援:関西大学・STEP
HP http://www.kansai-u.ac.jp/rakusai/ 


これからのモチーフサーキット

6月24日(金)13:00〜17:00
スピンハウス・ポンタ(京都市上京区今出川通寺町西入)

6月29日(水)13:00〜16:00
afu(京都市上京区今出川通寺町西入)

7月2日(土)12:00〜16:00
同志社女子大学 今出川キャンパス 純正館5F ラウンジ(京都市上京区今出川通寺町西入)

7月12日(火)13:30〜16:00
(社福)大阪市北区社会福祉協議会(大阪市北区神山町15-11)

7月18日(月・祝)9:30〜11:30
カフェ・ルッカ(京都市中京区新京極六角東入ル南側)

8月6日(土)10:00〜17:00
関西大学リサーチアトリエ(大阪市北区天神橋3-9-9)


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