南森町の交差点から北へ、扇町へ抜ける道、阪神高速下の道だけれども、あのあたりは、かつて天満堀川があったところです。今でこそ埋め立てられて影もかたちもないけれども、扇町の交差点のところがバイパスになっていて、下を潜っていくあたりには、ここに川があったんだろうな、薄く感じることができるかと。
本能寺の変のあとに、太閤さんが信長の遺志を継いで大阪城の築城をはじめるころ、築城とともに城下町を整備するために街区を整えていったんですね。
このときに、現在の菅原町から扇町公園付近まで、天満堀川が掘られたわけです。物流のための運河ですな。1598年(慶長3年)のこと。
大川(旧淀川)に荷揚げさせた日本中からの物資が、小分けにされて、天満堀川を伝って運ばれていった、と。逆もまたしかり。
かつては船が通い、堤には花が咲き、天満の繁栄には欠かせない運河だったらしいです。
でも、堀川は、大川の水勢に押されていつも濁水が停滞し、堀留の西側にはゴミが積み上げられて、ゴモク山なんて呼ばれてました。
そこで、1838年(天保9年)、大塩平八郎さんが大暴れしたあとのことだけれども、被災者救済や失業者対策事業の一環として、今の樋之口町あたりで流路を拓く工事が行なわれてます。淀川と直接結ぶことで、濁水の停滞を解消する、と。これ、現代の公共事業とおなじですね。
これで水の流れがよくなって、「摂津名所図会大成」には、
清水通じ、その潔きこと、言語に絶す。堤には柳、桜を植えつらねて風景を増し、船の行き来も自由になり、花の頃は人々が観賞に集まる。むかしのことを知る者は、本当におなじところかと疑うばかりの景地
と書かれてます。
埋め立てられたのは、1972年(昭和47年)。交通対策を目的として埋め立てられているところから、輸送手段が船から車にとって代わったことに対応した、ということです。このとき、天満堀川は、370年の歴史に幕を閉じました。
下流から上流に向かって、
太平橋
樋上橋
菅原橋
樽屋橋
天神小橋
堀川橋
溝之側橋
寺町橋
綿屋橋
扇橋
夫婦橋
北辰橋
堀江橋
樋之口橋
と、14の橋が架かっていたといいます。
残っているものもあるし、跡碑だけが残っているものもあるけれども、こうした橋の名称を見ていると、当時の町名が偲ばれます。
なかでも一番有名なのは、きっと、
夫婦橋です。
天神橋筋商店街の3丁目と4丁目を分けるところ、ミスドのすぐ北側にある横断歩道が、じつは、かつて橋だったところで、今は、欄干が復元されています。ここ、元は扇橋と言ったみたいですね。
商店街の、ほぼ中間に位置しています。
ここには秘められた物語があります。
江戸時代の慶長年間以前、この地には、朝来池と呼ばれる池がありました。
上田秋成の「雨月物語」のなかの「浅芽が宿」のなかに、
「さりともと思う心にはかられて、世にも今日までいける命か」
と、あります。
これは、夫婦の純愛物語で、旅に出た主の帰りを待つ女房が苦難のなか、ひとりで生きてきた末に、それでもいつかはきっと帰ってくるよと待ちわびるわが心に欺かれて、よくもまあ今日まで生きながらえてきたものだ、という意味で詠んだものです。
で、そのように書き添えて散った人妻を哀れに思った老人が、そのしたためられた紙片を、往時、女夫塚(夫婦塚)に添えたのでした。
その後、朝来池がふたつに掘られて女夫池(夫婦池)と名付けられたのでした。
女夫、と書いて、めおと、と読みます。大阪では明治時代まで、夫婦のことを「女夫」と書きました。法善寺の夫婦善哉も、元はこの字ですな。
1838年(天保9年)、天満堀川を今の扇町公園付近から樋之口町まで延長したとき、この池を利用して東西の河道を拓き、女夫池は夫婦橋にその名残りを留めて、今日にいたっています。
明治の中頃までは、その河岸は、木村堤と呼ばれる桜の名所で、浪速百景のひとつに数えられていたとのことです。
また、夫婦橋のそばにある妙見山の丑の日の縁日には、参拝客が往来し、えらいこと賑わったとか。
現在は、埋め立てられて普通の道になっていて、そこが橋とは気付かんでしょうが、天神橋筋商店街が大阪市に陳情して、欄干が1999年に復元されています。
欄干の竣工式は、どえらいこと揉めたらしいけれども、ま、それはまたべつの機会に(笑)
あ、橋からすぐ北にある、粟おこしの「夫婦橋 大清堂」さんの入口のところに、夫婦橋の跡碑が立てられています。
夫婦橋大阪市北区天神橋4