東照宮というと日光東照宮、徳川家康を祀っているところだけれども、じつは東照宮っちゅーのは日本全国にあります。
徳川家康というカリスマが亡くなって、2代将軍である秀忠が治めるようになったとき、治世を盤石なものにしようとする一環で、家康を東照大権現という神に格上げするために東照宮は建てられたわけです。
日光の東照宮を総本山とし、全国各地にその摂社を建てて、威光を全国に知らしめます。
もちろん、大阪にも。というか、大阪は反江戸の拠点だったわけなので、ここに睨みを利かさないわけにはいきませんわな。
大坂夏の陣で豊臣方が破れて以降、その戦功によって大坂の地を与えられ、復興にあたっていたのは、家康の外孫である松平忠明です。
その松平が、東照宮建設のために目を付けたのが、大阪城の北、天満川崎の地にあった織田有楽齊の別邸跡地。現在の造幣局から滝川小学校のあるあたりに、東照宮を造営します。
その後、大坂は幕府の直轄地となり、城代が置かれるわけですが、川崎東照宮は、その後も幕府の庇護下で威光を放ちます。人事の異動などで城代や町奉行に新しい人が赴任するたび、彼らはまず最初に川崎東照宮に参拝したといいます。そりゃそうだわな、なんてったって、時の権力者の神さんなんだから。
一般人は、普段は東照宮の境内に入ることができませんでした。
ただ、毎年、家康の命日である4月17日前後に行われた権現祭りのときだけは、参拝することが叶ったんだとか。大変賑わったらしいのですが、太閤さんのお膝元で、なんだってそんなに盛り上がったんでしょうか?ちょっと不思議です。
そうそう、大塩平八郎が、一度、川崎東照宮を焼失させています。1837年(天保8年)のこと。
直情型でイケイケドンドンのおやじさんは、ここら一帯、次々と爆破してますからな。
その後、再興成ったんですが、幕末から維新の動乱期に、川崎東照宮は急激に衰退することとなります。
鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れ、大坂から江戸へ引き上げるわけですが、そのとき、川崎東照宮のご神体も移されています。幕府の抱えていた危機感が、こっからも見てとれますね。
廃絶したのは、1873年(明治6年)。つまるところ、徳川幕府隆盛のために存在した川崎東照宮は、徳川幕府誕生とともに生まれ、幕府と運命を供にしたわけです。
現在、滝川小学校の正門横に、かつてここに東照宮があったことを示す碑が、建てられています。
強者どもが夢のあと、といったかんじですね。
なお、遺構として、当時、使われていた灯籠が、現在、大阪天満宮の登竜門横に安置されています。
川崎東照宮跡碑大阪市北区天満1-24 滝川小学校正門横
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