梅田は東通り商店街をずずっと東へ進んでいくと、ドン突きのところに、綱敷天神社があります。
周辺は、ネオン&ピンク街のオンパレード。
大阪では珍しくないけれども、ここもまた、聖と俗のコントラスト鮮やかな様相のなか、神社はあります。
綱敷天神から真っ正面に東通り商店街が延びているので、東通り商店街は綱敷天神の参道として発達したのか?と思わんでもないのだけれども、たしかなことは知りません(笑)
さて、綱敷天神の創建は、843年(承和10年)と言いますから、平安時代ですな。
天神の名がついているところからご想像の通り、菅原道真が絡んでるんですが、まず最初に登場するのは、嵯峨天皇です。嵯峨天皇というのは、わりと平和な時代に生きた天皇で、書がめちゃくちゃ上手い人です。
実際、境内には筆塚がありました。
そして、天神さんには必ずいらっしゃる、牛☆
ま、それはよろし。
その嵯峨天皇が兎我野に行幸したおり、今の綱敷天神が建っている場所に仮の御殿を構えて逗留したのが縁で、彼が崩御したとき、彼の皇子である源融が遺徳を偲んで太融寺を創建します。源融というのは、源氏物語の主人公である光源氏のモデルとなった人ね。
んで、そんときに、同時に、嵯峨天皇を祀る神社として、綱敷天神を創建します。神仏習合ではないけれども、平安時代というのは、神も仏もおおらかに共存していた時代でもあるんで、こういうことはわりと普通に行われてます。
もっとも、創建された当時の名は、綱敷天神ではなくて、神野太神宮。
そっから時代は半世紀ほどくだります。901年(延喜元年)、太宰府に左遷されることとなった菅原道真が、この地を訪れます。
そして、ここでも、おなじみの梅が登場します。太宰府に向かう途中、この地に咲き誇る梅の花に心を奪われて足を止めた菅原道真は、船の艫綱を円座に敷いてしばし休息をとり、しばらく美しい紅梅を堪能したい、と。のんびりしていていいですな、この時代は。
そのとき、都からずっと一緒につきしたがってきた白大夫の度会春彦一族に、菅原道真は言います。
この地に留まって、いつか私が戻ってくる日まで待っていてほしい、と。その言葉を残して菅原道真は大宰府へと旅立っていったわけですが、ご存知の通り、菅原道真は太宰府に行ったきり、凱旋を果たすことはできなかったのでした。
が、しかし、菅原道真から「白江」の姓を賜った一族は、その言葉にしたがってこの地に留まり、菅原道真公が愛でた紅梅の木の下に小さな祠を営み、そこを「梅塚天満宮」と名付け、主君の御霊をお祀りしたのでした。埋田が梅田に好字化した由来はいろいろあるけれども、この梅塚が「梅田」という地名の由来となったといわれています。
さらに話は続きます。
その後、朝廷は、菅原道真の怨霊の脅威に大きな畏怖を感じるわけですが、993年(正暦4年)年に、彼の名誉を回復させ、「正一位」の位階を追贈します。
さらに、縁の地であった梅塚天満宮のあるこの地に、改めて社殿を建立。
その結果、神野太神宮と梅塚天満宮が合祀され、新たに「北野天神社」が生まれます。
もっとも、「北野」は、「喜多埜」とも「北埜」とも表記されることがあるので、どの字があてられていたのかは、僕にはわかりません。
嵯峨天皇が愛していたのが京都の北野なので、「北野」とするのは自然の成り行きではあるけれども、確証は、ない。
でも、「喜多埜」を使った名残が、境内にはありました。「喜多埜稲荷神社」です。
ただ、今は、再び「綱敷天神社」の名称が使われ、「北野天神社」は、どちらかというと、通り名のようなポジションに落ち着いてます。
これが、本殿です。
1945年(昭和20年)、大阪大空襲によって境内は炎上します。社殿や文献の多くが焼失し、社殿の裏手にあった神山と呼ばれる小山が、爆撃によって吹っ飛びます。
が、しかし、菅原道真が座ったとされる御神宝の綱と御影は、奇跡的に難を逃れたのだそうです。
境内を散策していてあらためて気がついたのですが、このあたりは、町会をはじめとした地元の人たちの神社への思いは強いようです。あちこちに、寄贈の文字が見受けられます。
戦後の再建について、詳しく調べてはいないけれども、きっと、地元の方々の熱心な再建への思いは、すごいものがあっただろうな、と思います。
これは、第2次大戦に従軍して亡くなられた方々の慰霊碑。
本殿前の灯籠がでっかくて、しかもおもしろいかたちをしています。
綱敷天神社も、ここらではでっかい神社なので、境外末社があります。
茶屋町に御旅社が、角田町に歯神社がありますな。
それらについては、過去にエントリーしました。
「歯神社の『歯』は『歯止め』の『歯』」「綱敷天神御旅社から『梅田』の地名を考える」綱敷天神社大阪市北区神山町9-11
HP
http://www.tunashiki.com/→
mapを見る