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大阪駅物語(1) 〜誕生編〜
大阪市の北区の建築物は、寺社を含めて大ゴマが揃っているんで、それについて書くとなると、いろいろと調べものもせねばならず、なかなか重い腰が上がりません。

といって、このブログの性格上、放置するわけにもいかないので(笑)
まずは、大阪駅から手をつけていくことにします。人間、いくつになっても勉強せねばならんということですかね…。
べつに、鉄ちゃんでも鉄男でも、なんでもないんですけどね。

1回ですべてを書き切ってしまうのは不可能なので、何回かに分けてエントリーすることになるはずです。


さて、今、改装を行っている大阪駅は、明治7年(1874年)にできました。ということは、今年で135年目ですか…。つまるところ、日本の近代とまるまるおんなじ歩み、ということですね。

で、俯瞰して並べてみると、大阪駅は、4つないし5つの時期に分けて考えることができます。




今回は、第1期を。

第1期は、創世と成長発展期というか、要するに、開業時からだんだんと駅整備が整い、客貨の取扱量が増えて、明治42年(1909年)の大阪荷扱所(梅田貨物駅の前身ですな)に貨物取り扱いが分離されるまでの期間です。

この時期は、明治の文明開化と殖産興業の時期に、ピッタリ重なってきます。人と貨物の扱いから車両の入れ替え、留置など、鉄道輸送にかかる業務のすべてを、ひとつの駅で完全にまかなっていた時代です。

日本に初めて鉄道が敷設されたのが、明治5年(1872年)10月の新橋-横浜間で、それに遅れること1年半、明治7年(1874年)5月11日に、大阪-神戸間で鉄道が開通し、大阪、西宮、三ノ宮、神戸の4駅が誕生しました。

大阪駅が設置された梅田は、かつて田畑池沼を埋め立てたので「埋田」と呼ばれていたところを好字化して「梅田」にしたという説もあれば、梅田宗庵という人の所有地であったことから地名になったという説までいろいろあるんですが、なんにせよ、一面の田んぼと墓地があるきりの、さびれたところでした。
なんせ、明治22年(1889年)の市制施行時における大阪市域にも含まれず、明治30年(1897年)まで西成郡曽根崎村に属していた場所ですから。

初代の大阪駅は、その梅田の、大阪中央郵便局の西側のコンテナセンターのあった場所に、建てられてます。

当初は、もっと南の、当時の大阪の市街地である堂島に建設される予定だったのだけれども、汽車の火の粉で火事になる!と反対運動が起こって、民家のない北の外れに追いやられたということです。

もっとも、これにも異説があって、この鉄道は市街地を走る鉄道ではなく、大阪と神戸という、都市と都市を結ぶ鉄道ですから、堂島に大阪駅を設置すると、そこを終点にしなければならず、いわば折り返し点の駅となってしまいます。でも、広大な空き地であった梅田に駅を設置すると、通過式の構造の駅をつくることができます。
将来、東へ線路が延伸された際に、京都-神戸間の直通運転に都合がいいよう、折り返しの終点駅としてではなく、通過式の駅にするため、当時の鉄道長官の指導で、梅田の地に大阪駅を設置することが決まった、という説もあります。
折り返し式の駅にした横浜駅が、のちに、その構造ゆえに時勢変化に対応できず、2度にわたって移転を強いられたことを鑑みると、これは大阪駅に先見の明があったとも言えますね。

そんなわけで、民家のない北の外れ、梅田の地に大阪駅は誕生したのでした。
田んぼの中に突如としてできあがった赤煉瓦の洋風の駅舎は、煙を吐いて疾走する汽車とともに一躍人気者になり、「梅田のステンショ」と呼ばれ、毎日大勢の人が弁当持参で見物に訪れるという、ちょっとした観光スポットとなったのでした。
この当時は「梅田駅」と呼ばれていて、「大阪駅」と呼ばれるようになったのは、どうやら、阪急、阪神が開業した明治43年(1910年)以降のようです。

開業当時は、1日に列車8本。それでも乗降客は1000人程度いたといいます。
大阪から神戸までの運賃は、上等が1円、中等が70銭、下等は40銭で、米が1升5銭の時代ですから、これはべらぼうに高いわけです。それでも1日に8本が走って、1000人が乗り降りしたというのだから、ちょっとびっくりするような、高い利用率です。官員やら商売人しか乗れないと思うんですけどね。

内田百里、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という飄々とした一文で人気を博した紀行文、『特別阿房列車』を書くのが戦後で、その時点ですら、鉄道に乗ることそのものが目的という時代ではないなかで書かれたものですから、大阪駅開業当時の1日1000人というのは、まさに、需要を創出したのだと思います。

さて、初代大阪駅の写真が、『写真で見る大阪市100年』に載っています。

初代大阪駅


駅前の前面は、左右両側に樹木が植えられ、広々としています。この写真の外側の両サイドには築山・小池をしつらえた庭園があったらしいのですが、それでも、風景としてはまだまだ寒々としたものだったようです。
写真ではよくわからないのですが、駅前には、高さ10メートルの時鐘台があり、発車5分前になると鐘を鳴らしていたとのことです。

大阪の市街地は堂島よりも南にあり、駅から市内に行く道は、出入橋方面の一本道があるきりで、今の桜橋筋は人力車も通れないほどの細い路地で、もちろん御堂筋も梅田新道もなく、駅開業当初は、まさしく片田舎といった風情だったようです。


でもやっぱり、駅というのは偉大ですね。
大阪駅の利用客や貨物の取扱量が増えるにつれ、待合茶屋や旅人宿、運送店なんかが駅前に軒を連ねるようになり、施設ができてさらに人が集まるようになりますから、その相乗効果で、3年もすれば、なかなかの繁華街に発展したんだとか。

明治10年(1877年)には、京都まで鉄道が開通して、神戸-大阪-京都間で直通運転がはじまってます。

その年、西郷隆盛を担ぎ上げた士族による西南戦争が勃発し、この鉄道で官軍を運び、早くも戦時のロジスティックに鉄道が組み込まれてます。
ただ、帰還兵を輸送する途中、神戸付近で列車が正面衝突し、日本の鉄道史上初の運転事故も、このときに起こっています。

このあとは、明治の文明開化と殖産興業の波に乗って、拡充の一途ですね。


明治21年(1888年) 三陽鉄道 兵庫-明石間が開通。
明治22年(1889年) 東海道線 新橋-神戸間が全通。
明治34年(1901年) 神戸-下関間が全通。
この間、急行列車が生まれ、食堂車が生まれ、サービスの向上も図られます。

大阪とその周辺に目を落とすと、
明治22年(1889年) 大阪鉄道 湊町-柏原間が開通。
大阪鉄道は、のちに関西鉄道となり、その後、環状線や関西本線に引き継がれる鉄道です。
明治25年(1892年) 大阪鉄道 湊町-奈良間が全通。
明治28年(1895年) 早くも私鉄が登場し、浪速鉄道(のちに国鉄に)が、片町-四条畷間を開通。
明治28年(1895年) 大阪鉄道城東線 大阪-天王寺間が開通。
明治31年(1898年) 西成鉄道 大阪-安治川口間が開通。
明治37年(1904年) 大阪-新舞鶴間が開通。

もう、3、4年おきに新線が開通するというめまぐるしさで、僕なんか、今でも、やれ今里線が開通した、京阪の中之島線ができた、阪神の難波線ができたと、それだけで頭のなかがややこしくなっているので、明治を生きた人々は、想像以上にインプットに忙しかったんだと思います。

これらの新線開通と相前後して、東海道線は大阪駅を挟んで上下線ともが複線化され、鉄道網がひろがると同時に輸送力が激増していきます。

大阪駅の乗降人数は、開業当時に1日1,000人だったのが、30年後の明治35年(1902年)には、1日に14,000人を数えるほどになってました。30年で14倍! 開設当初、どの程度の利用客を見込んで、どのような成長曲線を描くのか、もちろんシュミレーションしたでしょうが、現実はそのシュミレーションをう上回ったんでしょうか、どうでしょうか?

これはやはり、明治政府が殖産興業を推進し、国営企業を数多く運営してきたことに、一因があるのだと思います。というよりも、それを見越しての、鉄道敷設なのでしょうが。

企業というものが誕生し、それまで農家であれ商家であれ一家総出で働いていたのが、企業人というか、要するに月給をもらい通勤するサラリーマンが誕生し、サラリーマンの誕生とともに、日本史上初めて、現金収入を得ない立場の「主婦」というセレブが誕生し、日本人のライフスタイルが大転換を迎えた時期でした。
それまでは、一家総出であっても、職住はおなじ場所ですが、企業の誕生に伴い、サラリーマンの生活のなかに、通勤というものが入ってきます。その需要を、鉄道は受け止めるかたちで発展してきました。

一家総出も職住同一もなくなったけれども、一方で、おとうさんは毎日外に働きに出、おかあさんは現金収入を得ない(でもやっていける)主婦に専業する、というライフスタイルが、この時期に確立されています。

さて、そうしたライフスタイルの変化を背景にして、鉄道の利用は増すばかりで、発着の列車本数も増え、創業当初の大阪駅ではまかないきれない業務量となり、駅舎改築の問題が持ち上がってきます。



そして明治34年(1901年)、二代目の大阪駅が落成します。
初代の駅よりも東に200メートルほど移動して、現在の駅ビルの建っているあたりに本屋が建築されています。
初代駅が煉瓦造りだったのに対し、二代目駅はゴシック風の石造りで、当時の日本銀行大阪支店、大阪造幣局の泉布観とあわせて、大阪三大名所に数えられました。


こんな駅舎です。
二代目大阪駅


たしかに、日本銀行の大阪支店と、外観のタッチが似てますね。

この駅舎は、結果的には、戦争と運命をともにした駅舎となりました。
駅ができて最初に走った列車は、日清戦争で日本の領土となった台湾に出兵する大阪師団37連隊の軍用列車だったし、最後に走った列車は、昭和10年4月の満州国皇帝が乗車した列車でした。
そういう時代だったとはいえ、富国強兵の軍国時代とピッタリ寄り添ってしまった駅舎ですね。

鉄道網の拡充により、大阪を舞台とした官鉄と私鉄の争いは、明治30年代に入り、いよいよ激化していくのですが、それも、明治37年(1904年)の日露戦争の勃発とともに終焉を迎えます。
軍事輸送は官鉄に圧倒的な活況をもたらし、大阪駅は、四六時中、軍用列車を含む長距離列車の発着で賑わったといいます。その日露戦争が日本の勝利に終わると、軍部の要請を後ろ盾に、長年の政府の懸案であった鉄道の国有化が、明治39年(1906年)、国策として実現し、大阪では、西成、三陽、関西、阪鶴鉄道などが国に買収され、大阪駅は、縦横に支線を張り巡らせた官営鉄道の一大拠点として、一人勝ちしていきます。


ふう。
ここまでが第1期。創世と成長発展期。
エラい長なってすんまへん(笑)


第2期は、さらに膨張を続ける業務を分化させるため、大阪荷扱所を新設して貨物を分離させるところからです。



JR大阪駅
大阪市北区梅田3-1-1

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