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天満の滝川公園には、天満自治の重要な史跡「天満惣会所跡」と「天満興正寺跡」があります
天満宮から大川に向かって下って行くと、ちょうど南東に位置するところに、町なかにぽっかりと滝川公園があります。扇町公園とはまた違った趣の公園らしい公園で、結構な広さのわりにはチマチマといろんなものが詰め込まれていて、ちょうどいいサイズになってます。桜で有名な公園ではあるんだけれども、そのころには行ったことがないです…。盆踊りのころに、横目で眺めながらチャリで走った記憶はあるな。

滝川公園

滝川公園


この通り、南北2ブロックにまたがる、まあまあでっかい公園です。

滝川公園


さてここには、いくつかの跡碑が建てられています。

まずは、天満組惣会所跡碑

天満組惣会所跡

江戸時代のことですが、大坂は3つに分割されてました。
大川(当時の淀川ね)よりも北が「天満組」で、大川の北のエリアをさらに南北に分割した北側が「北組」、南側を「南組」としていました。これを総称して大坂三郷と呼びます。

太閤さんが亡くなった直後の時代、大坂夏の陣によって、大坂の町は大打撃を受けます。
そこで、復興は商業から!と、大坂らしいスローガンのもとに、大坂三郷はできたようです。

で、大坂三郷を統括していたのは大坂町奉行なのだけれども、町の行政の実際を担っていたのは、「惣年寄」や「町年寄」などの役職を与えられた人たちで、彼らは町人のなかから選ばれた人たちでした。
今の町会長に市会議員の権限を少しプラスしたようなかんじですかね。

「惣」は、すべて、というほどの意味があって、社会的な意味合いで使う場合には、その地域に住むすべての構成員、といった意味合いになります。なので、惣村といえば今の町内、町会に該当し、それが集まってできた惣郷は、今の連合町会や区に該当します。
なので、惣年寄は、そのエリアのすべての人たちの代表者、という意味になりますな。

それぞれの組には惣会所が置かれていて、天満組の総会所は、今の滝川公園にありました。

天満組惣会所跡


ここで、町人による自治が議論され、行政全般を処理していたといいます。今の区役所か区議会(ないけど…)みたいなところですね。
惣会所の筆頭が惣年寄で、その下に、惣代、手代といった役職の人々がいました。
ガバナンスのこうしたスタイルというのは、江戸にはなくて、畿内特有、それも大坂に顕著なシステムだったようです。



さて、惣会所の隣には、天満興正寺がありました。

天満興正寺跡

天満興正寺跡


創建はよくわからんのですが、1586年(天正13年)、歴史に登場します。創建当初は天台宗のお寺さんだったのが、途中、真宗に鞍替えします。で、真宗に鞍替えしたあたりから、歴史に登場します。
宗派が変更になるのはよくあるケースで、お寺さんにも栄枯盛衰があって、衰退して荒廃したお寺さんを誰かが再建するときなどに、再建した人の宗派になったりします。建物はそのままでも、お寺さんの主が変わると、宗派も変わる、というわけです。

詳しいことはわかってないけれども、この天満興正寺にも、上り調子のときと下り調子のときと、山あり谷ありの歴史があったんでしょうな。最盛期は、なかなか広大な敷地を誇っていたようです。

お寺さんというのは、なにも仏像を祀ってお経を唱えているだけの場所ではなくて、そこで読み書きソロバンを教えている場合もあれば、人々の憩いの場になったりもし、コミュニティのセンターのような役割を果たしている場合が多々あります。

天満興正寺では、天満組の「宗旨人別帳」を納めていたといいます。
宗旨人別帳というのは、現在の戸籍に相当する住民台帳のようなもので、江戸幕府がキリスト教の信仰を禁じるようになって、取り締まりの手段として、住民の信仰の状況を調べ台帳化する政策のなかでできたものですな。
一度見せてもらったことがあるのですが、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されてます。結婚やら丁稚奉公やらでその土地を離れる場合には、転居届みたいなのをつくり、移転先で新たな台帳へ記載します。戸籍+住民票みたいなもんですな。

通常、この宗旨人別帳は奉行所が保管するのだけれども、天満組では、天満興正寺に納めていたのだそうです。天満興正寺が私寺ではなく、かぎりなく公の地位に近い位置づけにあったということになるんでしょうな。かなり珍しいケースらしいです。

とにかく、丁稚奉公や結婚などの折りに台帳にいろいろ記入してもらうために天満興正寺に人々が行きますから、当然、出産のときも行くわけで、そのため、天満興正寺は別名、産寺とも呼ばれてたんですと。

別帳は6年おきに見直しというか監査のようなものを行なう決まりになっていて、それは惣年寄の役目。
その見直しか監査かを終えて、別帳を再び天満興正寺に納める行事を「巻納め」と呼び、この界隈の一大行事として有名だったようです。

そうなると、天満興正寺と天満惣会所が隣同士にあったというのはうなずける話で、永田町と霞ヶ関が隣同士だから便利なのとおなじことですな。

さて、この天満興正寺は、大塩平八郎の乱をはじめ、何度か戦災に遭い、そのたびに復興されるんですが、最終的には第2次大戦の空襲で焼失します。で、現在はなぜか旭区に移転してるんだとか。詳しい経緯は知らんですけどね。

ちなみに、滝川公園内には、お地蔵さんの祠がありました。
天満興正寺の伽藍の一部ですかね? …たぶん、違うだろうな。

滝川公園



祠のなかにはもちろんお地蔵さんが祀られていて、童子を従えていました。
丁寧に手入れされてるんで、きっと、夏のころには地蔵尊祭りがちゃんと開催されてるんだと思います。

滝川公園


惣会所も明治維新を境になくなるんですが、1872年(明治5年)、この地に滝川小学校が建設されます。
その後、そっから先の歴史って、あんまりよくわからんのですが、その滝川小学校も明治の終わりにはべつのところに移転して、天満興正寺も移転して、今、このあたりは滝川公園になっとります。

で、冒頭に戻る(笑)








天満組惣会所跡と天満興正寺跡
大阪市北区天満4-7 滝川公園内
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