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江戸時代の特急、淀川三十石船☆
大川の北岸、天神橋から天満橋にかけては、今、天満南公園となってます。
そのむかし江戸時代ですけど、このあたりに天満青物市場があって、往時を偲ぶものとして、天満青物市場跡碑と天満子守唄碑と、それともういっこ、淀川三十石船舟唄碑があります。

天満青物市場跡碑と天満子守唄碑についてのエントリーは、こちら。

「天満青物市場跡にある天満の子守唄 碑」



今回は、淀川三十石船舟唄碑を。

淀川三十石船舟唄碑


当時、大坂には、八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀の4つの船着き場があって、天満の青物市場の玄関口となっていたのは、八軒家ですな。今、対面の岸に、八軒家浜駅として復活しているのが、そうですな。

伏見と天満を、船が往復してました。
上り船と下り船があって、上り船は主として朝早く天満を出て、夕方には伏見に着く船。
川を遡るんで、上り船はなかなか大変やったといいます。棹をさしてのぼるところもあったけれども、11里(約45km)を、ほとんど綱を引いてのぼったらしいです。

下り船は、伏見を夜に出て、早朝には大坂に着きます。こっちは水流に乗るから、ラクですね。

なので、船賃が全然違います。享保年間の記録だと、上り船が172文、下り船が72文。倍以上違います。

伏見の町が日本の歴史のなかで脚光を浴びるようになるのは、太閤さんが、伏見を城下町として開花させ、京と大坂を結ぶ淀川水運の発着点としてからです。

もちろん、伏見で終わるんじゃなくて、伏見で荷揚げされた荷物は高瀬川を走る高瀬舟に乗せて、京の町まで運ばれます。高瀬川は、京都の二条から鴨川の水を引いてつくった運河で、1614年(慶長14年)、角倉以了が拓いてます。彼を祀る菩提寺が嵐山の大悲閣千光寺で、僕はこのお寺さんが大好きなのですが、それはまたべつの話なので、ここでは省略(笑) じつにいいお寺さんなのですがね、ここは☆

上り船も下り船も貨物船なのだけれども、その後、徳川の時代になって世が安定してきたころに、大阪と伏見を結ぶ交通機関として、旅客専用の船、淀川三十石船が登場します。米を三十石(米俵にして75俵)積めることから三十石船。全長56尺(約17m)幅8尺3寸(約2.5m)、乗船定員28人〜30人、船頭さん4人の船です。
別名を過書船とも言われてました。過書というのは、関所を通過するときの交通税の免除状のことで、淀川三十石船は、江戸幕府から淀川水系の特権的な営業権を与えられていたので、過書船と呼ばれたわけです。

淀川三十石船舟唄碑


最盛期で162隻が就航していて、上り下りあわせて1日320便、9,000人が利用するという、当時の日本でももっとも太い交通路ですわ。
ということは、当然、競争原理が働きますから、どこで差別化するかとなったとき、やっぱりスピードなんですね。このへん、今もむかしも変わってませんな。
船頭が徐々に5人6人と増えて、早舟三十石とか早上がり三十石とか呼ばれるようになります。今でいう急行やら特急みたいなもんです。事故はなかったんやろか?(笑)

船頭が増えたところでしんどいのは変わらんし、チームワークも要求されるから、やっぱ、歌が生まれます。それが、三十石船舟唄。沿岸の情景を歌ってます。

跡碑には歌の一部しか刻まれてなかったけれども、全文はこれです。伏見から大坂の八軒家まで、順番に並んでますね。


「おぉーい、舟が出るぞー。伏見の浜から、三十石船が出るぞー。」
♪(ヤレサー)伏見下れば 淀とはいやじゃ 
    いやな小橋を とも下げに(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)淀の川瀬の あの水車 
    (ヤレー)たれを待つやら くるくると(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)淀の上手の 千両の松は
    売らず買わずで 見て千両(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)八幡山から 山崎山へ 
    文を投げたが 届いたか(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)八幡山から 橋本見れば 
    赤い女が 手で招く(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは前島 お捨の墓 
    いとも淋しい 波の音(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは大塚 榎の茶屋 
    向こうは枚方 番所浦(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここはどこじゃと 船頭衆に問えば 
    ここは枚方 鍵屋浦(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)鍵屋浦には 碇はいらぬ 
    三味や太鼓で 船止める(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ここは唐崎 八右衛門屋敷 
    腕によりかけ 押せ船頭(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ねぶたかどけど ねぶた目さませ 
    ここは五番の 変わり場所(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)いたら見てこい 大阪の城は 
    北は淀川 船が着く(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

♪(ヤレサー)ねぶたかどけど ねぶた目さませ 
    ここは大坂の 八軒家(ヤレサ ヨイヨイヨーイ)

「おーい、客の衆よ。大坂に着いたぞ。さぁ上がった上がった。大坂の土産にどっさりと岩おこしなと買うていにさらせ。」


これ、民謡がベースになってるんだけれども、船頭唄なんで、本来的には三味線も尺八も太鼓も入りません。でも今は、三味線も尺八も太鼓も入れて、さらに船頭さんがお客に向かってガイドみたいなこともする語りも入って、ひとつの作品として完成しまくってます。
民謡の世界では、淀川三十石船舟唄の全国大会までちゃんとありますから☆


話は少し逸れるけれども、小舟に乗って三十石船に近づいていって、食べるもんを売ってたんが、あの有名な、くらわんか舟ですな。
枚方あたりで、餅やら汁もんやら酒やらを舟に乗って売りにきて、「餅くらわんか〜」「ごんぼ汁くらわんか〜」ってかんじで、汚い言葉で食べるもんを売りにきた、と。
それで枚方は言葉が汚い、下品や!って飛躍させる人もいるんですが、これ、枚方の専売特許じゃなくて、毛馬にもあります。毛馬のは、毛馬舟って言いますけどね。

ただ、くらわんか舟が汚い言葉で悪態を吐くのは、この地方では古くから悪霊を追い払うのに悪態を吐くという習わしがあって、旅の安全や無病息災を願うという意味で使われたので、旅人には大変喜ばれたといいます。そうでないと、ただ威張ってるだけの商売やったら、すぐに廃れてしまって、歴史に残りまへんがな。相手が武士であれ誰であれ、このスタイルで通したんで、エラいさんが乗ってるときなんかは、同舟の客は喝采を送ってたでしょうな。


さて、その淀川三十石船も、明治の半ばには大半が姿を消します。日本中で水運が衰退して鉄道がのし上がってくる時期と、ピッタリ一致します。
昭和初期までは、細々と、石炭貨物として生きながらえてはいたみたいですけどね。

浪曲の「清水次郎長伝」に、「石松三十石船道中」のくだりがあって、淀川三十石舟が登場します。次郎長に頼まれて石松が刀を四国の金比羅さんに奉納してくる道中、酒断ちを言われてるのにもかかわらず、三十石船で酒を飲んでしまってエラい目に遭うという話。

幕末のころには、諸国から京へ集まる勤王浪士たちも三十石船で京と大坂を足繁く往来したといいます。さすがは大動脈、というところですな。


これは碑の対岸に見える八軒家浜。

淀川三十石船舟唄碑






淀川三十石船舟唄碑
大阪市北区天満3丁目 天満南公園内
mapを見る




  

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この記事のコメント
私も仕事柄ここの辺りをよく通ります 大阪 神戸の鍵屋です。歴史を感じています・・

| 鍵屋 | 2010/06/11 1:06 PM |
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