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歯神社の「歯」は「歯止め」の「歯」
梅田のユニクロはちょくちょく行くのだけれども、その隣に、ひっそりと、祠と鳥居があって、ユニクロに行くたびに気になっていたのでした。

気になるだけで、なにも調べずにいたのですが、今回、重い腰を持ち上げて、調べてみました。というか、いつもは素通りするところを、チャリを停めてまじまじと見てみると、「歯神社」という額が鳥居にかけられていて、歯の神社って!と、あまりのインパクトの強さに、調べてみたくなった次第で。。。

サイトがありました。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/u-shirae/syaden/hagamisan.html

以前紹介した綱敷天神御旅社とおなじく、ここも、綱敷天神の末社だったのですね。
この近辺、だいたいどこも、綱敷天神かお初天神か太融寺の息がかかってるみたいです(笑)

縁起を見てみますと、
もとは農耕の神さまである宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、地域農民が信仰してましたところ、現在は「はがみさん」と呼ばれていて、歯の神さまとして信仰されている、と。
宇迦之御魂神は農耕の神さまということなので、きっと、お稲荷さんのルーツと考えて間違いないかと思います。






歯の神さまってなんですか、歯の神さまって?

歯の神さまについて、かーなり真剣に調べてみたのだけれども、はっきりとはわからなくて、わかったのは、どうやら淀川の氾濫が関係しているらしい、と。

淀川の氾濫といえば、明治18年の大洪水が有名ですな。

そもそも、大阪の地は、淀川がとめどなく土砂を運んでくるために、長らく泥地でした。なので、大阪の都市計画といえば、淀川をどう治水するか、と言い換えてもいいほどで。

江戸時代中期の河村瑞賢による淀川水系の治水工事もなかなかの大事業だったみたいですが、にもかかわらず、淀川はたびたび氾濫し、大阪は大洪水に見舞われてきました。
宝永4年(1707年)、享和2年(1802年)、文化4年(1807年)と、江戸時代中期以降だけでも、3回の洪水が記録に残ってますわ。

で、明治18年の大洪水となるのですが、こいつは強烈です。

6月の上旬に雨が降り続いて、淀川が増水、上流各地で堤防が切れる。
6月10日
午前3時に土佐堀川の水かさが3.4メートルに達し、土佐堀川は決壊寸前。

6月24日
いったんは水が引きはじめる。

6月28日
でも、雨が再び降り出して、午後から再び増水。

7月2日
市内の各河川で水が溢れ、中之島では、中流下流域で各家とも軒下15.、6センチまで濁流が迫る。
大阪鎮台工兵隊も出動して、土佐堀川や堂島川の橋の流出を防いだが、水の勢いには勝てず、ほとんどが流れ去る。
天満、中之島をはじめ、難波(浪花)、大江、淀屋、渡辺、肥後、田蓑、筑前、玉江、常安、堂島大橋などで浸水。淀屋橋が流れたときは水死者が出た。北区で浸水を免れたのは、天満宮の周辺だけ。

今と違って、時間がゆっくり流れてますが、といって迅速な処置ができるわけでもないので、恐怖がじわじわと迫ってくるようなかんじがしますね。

7月4日
ようやく減水。
この間、
大阪-京都間の鉄道はすべて不通になり、堂島、北浜市場は浸水のため休業。大阪経済はマヒ状態ですな。
被害総数は、死者1、流失家屋が18戸、全壊家屋が13戸、損壊家屋が185戸、浸水家屋が8,691戸、浸水学校が11舎、救助者は2,491人で、北区は、西区に次いで被害が大きかったそうです。被災者のため、政府米が3,200俵、放出されました。

すごい被害。。。
でも、防疫に努めたので、直後の伝染病の発生は免れたそうです。これは、7月の暑い時期のことを考えると、快挙だと思いますよ。

そもそも、淀川がたびたび氾濫を起こすのは、川の形状に問題があるのでした。

もともとの淀川の本流である大川に集まった水が、天満で、寝屋川、平野川などと合流し、どっと下流に流れ込むため、川幅が狭くて浅い堂島川、土佐堀川では、この水量を支えきれないのが洪水の原因だった。
そのために、江戸時代には河村瑞賢が大川をひろげ、堂島川を改修し、安治川を開削したのだけれども、根本的なものではなかったのでした。

で、明治18年の大洪水のあと、根本的な改修を行なわなければならない!と、猛運動が起こったのでした。

毛馬から西へ細く流れる中津川を中心に、大阪湾まで一直線の新淀川をつくり、これを淀川の本流とします。毛馬から天満、市の中心部を経て大阪湾に注ぐ大川を支流化して、大阪の洪水渦を根本的に絶とうという、世紀の大事業。
この大改修を成し遂げたおかげで、今の淀川の形状、すっと一直線に大阪湾に流れ込む淀川の形状となり、中之島を挟む大川は、淀川の支流となり、おとなしくなったわけですな。

国の事業として行なうように政府に働きかけ、明治31年4月着工、12年の歳月をかけて、明治43年に完成したとのことです。
延長15キロメートルで、開削のための買収地は1415ヘクタールに及び、総工費1900万円のうち国庫負担は713万円。残りを、大阪、京都、滋賀の3府県で負担しました。
大川の水量を調節するために毛馬に洗堰が造られ、こちらは明治35年着工、明治43年に完成しました。これまた8年越しの大事業ですな。

この淀川改修に力を注いだ人は多いのですが、なかでも府会議員の大橋房太郎の功績は抜群で、永年、熱心な運動を続け、この計画案が国会を通過するときに傍聴していた彼は、思わず、淀川万歳!と叫び、守衛に連れ出されるというエピソードもあり、地元の人から、治水翁と呼ばれたということです。

これで淀川はおとなしくなったといいますから、無駄なダムばっかり造ったり無駄な治水工事ばっかりやってる今の国交省に聞かせてやりたいような、意義も意味もある大事業ですわ。


で、これが淀川の氾濫なのですが、この、明治18年の大洪水のとき、被害が、このあたりでは「歯止め」されたらしいのですよ。なので、それ以来、地域の人たちが、この神社を「はがみさん」として崇拝するようになったんだとか。
なので、口のなかに生えてる「歯」じゃなくて、「歯止め」の「歯」!


それが、どうしたわけか、今は、口のなかに生えてる「歯」の神さまになっちゃってます(笑)

これも、つらつらと調べてみると、どうやら、
淀川の決壊がなくなり、そのことも忘れられ、いつのまにか、「歯止め」が「歯の痛み止め」に転化し、いつのまにやら歯の神社になったらしいのですよ。なんちゅー転化(笑)






撫で石もあります。これは、きっと「歯」なんでしょうね。撫でとけば、虫歯にならずにすむのかな。





今や、歯のお守りまで販売されてるらしいです(笑)


綱敷天神の末社になったのは明治の初期のころのことで、地元の人たちが、ちゃんとした神社としてお祀りしようと、綱敷天神へ依頼し、結果、綱敷天神の境内飛び地末社としてお祀りされるようになったのでした。

平成12年(2000年)、放火の難に遭い、社殿の前部が全焼したのですが、社殿復興を望む声が多く、多くの浄財が集まり、翌年の平成13年(2001年)には、見事、復興と相成りました、とさ。

復興が素早いです。
それだけ浄財が早くにたくさん集まったということなのでしょうが、ということは、かなり愛されている神社ということになりますな。

ちょっと離れてみると、祠から炎が噴出しているかのような勢いで、イチョウの木が茂っています。もちろん、注連縄をしたご神木です。







歯神社
北区角田町2-8

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