今回は太融寺シリーズ第3弾、淀君の墓について。
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第1回目 枯山水のくせに超ゆる〜いの太融寺の庭第2回目 いつも誰かがお百度を踏んでる太融寺の人気者、一願不動明王豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母である淀君の経歴については、今さらなので、ここでは省略します。
物語は、秀吉の死後からはじまります。
1599年(慶長4年)、淀君は秀頼とともに大坂城西の丸に入り、豊臣の再興を画策するんですが、1615年(元和元年)、大阪夏の陣で大坂城が落城したとき、秀頼とともに自刃しました。息子とともに立ち上がり、息子とともに死ぬなんざ、まさに、母は強し!とはこのことですな。
さて、その淀君の墓が、太融寺の境内、北西の角に、ひっそりとあります。
なぜ、彼女の墓が、太融寺にあるのか。
大坂城落城の果てに自刃して果てた淀君の遺骨は、淀君が厚く信仰していた大坂城外鴫野弁天島(現在のOBPあたりですわ)の弁天社の隣に、ひとつの祠をつくって埋められたのでした。これが、淀姫神社です。
その後、時代は下って1877年(明治10年)、現在の大阪城公園に城東練兵場が造成されることになり、この、淀姫神社は、生国魂神社に移祀されることになったのでした。
その際、豊臣家に縁の深い太融寺に遺骨を埋め、「九輪の塔」を建てたということです。現在は、6輪になっているのは、第2次大戦の大阪大空襲のときに損傷し、下段の3輪がなくなったんだとか。
墓の横には、碑文があります。
で、淀君はベッピンさんでもあったし、豊臣秀吉の寵愛も厚かったですから、戦前は、キタの花街のおねえちゃんたちが彼女にあやかろうと参拝する姿が後を絶たなかったといいます。
特に、「巳の日」の縁日のときには、参拝するおねえちゃんが大挙して押しかけたそうです。というのも、この淀君の墓の横に、彼女の墓所を守るかのようにして、雌神を祀る白龍大社があるから。この雌神は、白龍、つまり巳です。今では太融寺の境内の外になってしまいましたが、雄神の龍王大神を祀った社があり、そことは対になっていて、縁結びの神さまでもあります。
こちらが白龍大社。
龍王大神については、すでにエントリー済みです。
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「龍王大神のイチョウに見るミイサン伝説」そういうこともあって、巳の日の縁日のときは、婦女子さんがこちらに参る姿が見れますな。
太融寺大阪市北区太融寺町3-7
tel. 06-6311-5480
拝観無料
HP
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