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初夏に芽吹いた新芽が生命の艶を放ち、水を抱えた樹々はエロティック。この時期の大山崎山荘は特筆に値する。
梅雨ですねえ。雨ですねえ。
梅雨になったら行きたい場所があったので、雲の切れ目からお日さんが覗くときを狙って、行ってきたのでした。

大山崎山荘。

あそこ、いつの季節に訪れても素敵だけれども、とりわけ、梅雨の今の時期が好きです。
湿気をたっぷりと含んだ空気は重いけれども、初夏に芽吹いた新芽が生命の艶を放ち、水を抱えた樹々はエロティックですらあります。
この趣は、それこそ梅雨のこの時期だけのものなので、雨と雨のあいだ、いいタイミングを狙って、行ってきました。
あとは紅葉の季節がおススメだけれども、梅雨の時期は週末であっても訪れる人が少ないので、この時期に行かない手札はありません。
ホトトギスも鳴いてるしね☆

大阪から小1時間で行けてしまう手軽さも、魅力のひとつです。

大山崎山荘は、明治の実業家である加賀正太郎が、イギリス仕込みのモダンな生活様式を日本に定着させようとして建てられたものです。
加賀はニッカウヰスキーの創立にも参加しているところなど、山荘だけでなく、生活様式まるごと!の気概が見てとれます。

山荘はその後、加賀家の手を離れ、バブル時代の末期には、建設業者に買収されて一帯を更地にしてマンションが建つ寸前まで行きましたな。
で、地元住民が動いて、大山崎町や京都府が動いて、土地を府や町が買い取り、山荘はアサヒビールが美術館として運営することになり、現在に至ってます。
アサヒビールはニッカウヰスキーの子会社だったわけなので、まあ、元の持ち主に戻ってきたとも言えますな。

モネの睡蓮を飾った新館を安藤忠雄が建てたのも、この時期です。

さて、美術館として再出発したときの初代館長は、アサヒビール初代社長の山本為三郎です。この人、館長になるだけあって、美術に造詣が深く、コレクションをたーくさん持ってはりました。
大山崎山荘に展示されている美術品も、この人のコレクションがメインになってます。日本民芸運動とも深いかかわりを持っていたので、柳宗悦や河井寛次郎の作品なんかも多いですね。

あと、山本はリーガロイヤルホテルの経営にもかかわっていたことがあるので、たぶん、その縁だと思うのだけれども、山荘の2階のテラスにあるカフェで供されるケーキは、中之島のリーガロイヤルホテルから運ばれてくる焼き菓子が中心です。


阪急でもJRでも大山崎の駅から山に向かって歩いて数分(無料の送迎バスも出てるけど、歩いても数分ですわ)、大山崎山荘、宝積寺へと向かう道から、山に入っていきます。
側溝がでっかくて、道の両脇から道を覆うようにして繁っている樹々を見るだけで、そこが水を豊富に抱いた山麓であることがわかります。すぐ東側は、あの、サントリーの山崎蒸留所だしね。

途中、山荘敷地の入口を知らせるアーチをくぐります。ここが雰囲気があってね、迎えられた気分になりますよ。
そこからは、ほどよく手入れされた、それでいてほどよく自然の荒々しさも残した、アプローチを歩くのです。

大山崎山荘


なぜか、年中赤いモミジがあります。
このあたりはサツキもまだまだ咲いていて、緑の海に刺し色をしたような自然がたっぷりと楽しめます。

大山崎山荘


歩いて15分くらいで、山荘に到着です。

大山崎山荘


山荘に入ってすぐのところに池があって、この時期、睡蓮が咲きはじめてますね。モネの睡蓮を見るまえに、まずはホンモノを。

大山崎山荘


ガラス窓を通して見る景色も素敵です。目に青葉とは、このことですね。

大山崎山荘


この時期、緑のモミジから赤い新芽が芽吹いていて、プロペラみたいです。

大山崎山荘


イントロ代わりの写真は、ここまで。
あとは、でっかいサイズで堪能してくださいませ〜☆



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大山崎山荘



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大山崎山荘
京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原5-3
tel. 075-957-3123
10:00-17:00 月休み
HP http://www.asahibeer-oyamazaki.com/


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圧巻のあじさい10,000株☆ 宇治・三室戸寺は今が一番いい季節です
 今年の春から念願の西国三十三ヶ所巡りをはじめとります。
といっても、まだ二ヶ所しか行っていないのだけれども、ま、焦っていくものでもないので、ゆる〜いペースで、季節のいいときを狙いながら巡っていきたいと考えています。

西国巡礼についてはそのうち別ブログを立ち上げるかもしれないけれども、ここではお寺さん紹介に徹していこうかと思っています。

で、今回は、三室戸寺

宇治にあります。京阪に乗って、中書島から宇治線に乗って、終点の宇治のひとつ手前の「三室戸駅」から歩いて15分。
西国三十三ヶ所第10番札所にして本山修験宗の別格本山でもあるところだけれども、このあたり、山に行けばお寺さんにぶつかるし、山に古くからお寺さんは、山伏、つまり修験道の本山でもあるので、これはよくある組み合わせですな。

三室戸寺は古いですよ。770年(宝亀元年)創建ですから、お隣にある宇治平等院よりも古いです。
ただ、創建の物語は伝承に彩られていて、こんなかんじです。

天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の元に、夜毎、宮中に達する金色の霊光が出現するのでした。
で、その正体を知りたいと思った白壁王がですな、家来の藤原犬養に命じて、突き止めさせるのです。犬養は、その光を求めて、宇治川の支流の志津川の上流へ辿り着きます。
すると、そこにある滝壺に、身の丈2丈(約6.06m)ばかりの千手観音像がおわしたのですね。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮の花びらが流れてきて、それが一尺二寸()の二臂の観音像に変じたといいます。
で、その観音像を安置するために建立したのが、三室戸寺のはじまり。
その後、桓武天皇が2丈の観音像を造立し、その胎内に先の1尺2寸の観音像を納めたといわれてます。

あ、単位書いときます。
1丈=約3.03m
1尺=約33.3cm
1寸=約3.33cm
ま、尺貫法は、法律でその使用を制限されているというバカバカしい決まりがあり、普及が望めないから、仏像の大きさ表記については苦労しますが(笑)

閑話休題。
その後、三室戸寺は西国三十三ヶ所にも含まれ繁栄していくわけだけれども、室町期に火災で伽藍を失います。再興されたあとも、織田信長と争った足利義昭に加勢したために焼き討ちにされたりしてます。
現存する本堂は、江戸後期の1814年(文化11年)のもの。

本尊は千手観音像なのらしいのだけれども(西国巡礼は観音さま巡りなので、そこに含まれている33のお寺さんの本尊は、皆、観音さんです)、厳重な秘仏で、写真も公表されてまへん。見たい!
ちなみに、2009年の秋に84年ぶりに開扉されたらしいです。。。。

まあ、それはともかくとして、三室戸寺といえば、庭です、庭!

庭というよりも、山一面!というくらいの広大なところで、そこに咲き誇るのは、あじさい10,000株
これがですね、圧巻ですからっ!
ピンクから薄紫、紫、青、白…、これから色づくであろう薄緑の紫陽花が群生する姿は、もう、圧巻としかいいようがなく、それはそれは見事なもんです。
おまけにこの時期、山の樹々から聞こえてくるのは、うぐいすの鳴き声。

この日は、前日の雨から打って変わっての晴天で、空が光っていて、どこからともなく、うぐいすが鳴いているのですよ。
そして視線を下げれば、色とりどりの淡い花びらのあじさいが群れなし…、
奇跡の前触れというのはこんなかんじで、ここでたたずんでいると、なにかいいことがきっと起こるような気がします。

今、ライトアップしているのだけれども、行くなら、断然、昼です。
ライトアップも幻想な風景を現出するけれども、それは光があたっているところのみ。でもここの風景のキモは、雄大さにあります。どこまで続く、あじさいの群れの雄大な風景。それを堪能するなら、陽の光のもとでが一番ですわ。

あじさいは、長くても6月いっぱいだろうけれども、7月からは、ハスが楽しめます。
こちらは、寺伝直結の花ですな。

例によって、あじさい写真を多数、facebookにアップしとります。

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Flickr!にもアップしてあります。こちらはスライドショーでどうぞ☆

Flickr 三室戸寺 スライドショー


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こっちはおまけの南禅寺金地院
南禅寺には有名な塔頭がたくさんあるけれども、個人的には金地院の庭が穴場。ここはまさに極楽浄土ですわ〜。この時期、花が咲き誇り、新芽が芽吹き…、一幅の風景画を見るような趣です。

例によって、facebookにアップしとります。

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南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院 南禅寺 / 金地院





三室戸寺
京都府宇治市菟道滋賀谷21
HP http://www.mimurotoji.com/


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東寺 目に青葉、春爛漫
東寺 


GWのこどもの日に、久しぶりに京都の東寺に行ってきたのでした。
五重塔の内部が公開されていることもあってね。

GWの京都のお寺さんなんて、どこも満員御礼でちっともゆっくりできないけれども、東寺は広大なお寺さんなので、ちょっとやそっと訪れる人が多いくらいではびくともしない穏やかさがあります。

平安京は、ザクッというと、東大寺や興福寺などの官立のお寺さんが幅を利かせて政治を上手く運営できなくなっていた平城京を捨てて、利害関係の少ない京都で新しい政治世界を拓こうとして造営されたものですな。

だから、平安京には、官立のお寺さんって、ないですね。
この時代のお寺さんは、現代の官僚的な役割と国立大学的な役割を担っていた一大センターだったわけですが、都が奈良から京都に遷り、平安京にできたお寺さんはすべて、私立のお寺さんです。だから、お坊さんも官の人じゃなくて、民間人。つまり、私度僧です。
京都の有名なでっかいお寺さん、南禅寺も大徳寺も建仁寺も東福寺も、すべて私立のお寺さんです。金閣と銀閣は…、当時の政治のトップがつくってるんでどうなのかわからないけれども、あれは室町時代にできたお寺さんだから、ちょっと微妙。
今では、どのお寺さんも国家とは関係なく、普通に宗教法人として運営されてますが、そもそもの成り立ちは、そういうことです。

とは言っても、当時の仏教は、国家鎮護の役割も担っていたので、官立のお寺さんがまったくないというのは国家泰平上よろしくないので、平安京の入口である羅城門の両サイドに、東寺と西寺を建立したわけです。この2寺のみが、官立。ま、西寺は、東寺との主導権争いに負けて、そのまま衰退しちゃいましたけどね。

ちなみに、東寺は、教王護国寺とも言いまして、王、つまり統治者である天皇に仏教を伝授し、国を護るという、課せられた役割がそのまんま寺名になってます。

というわけで、京都のお寺さんは私立のお寺さんが多いから、奈良のお寺さんと比べて、境内がちっこいのが大半です。国から土地を与えられたわけでもなければ、国のお墨付きすらもらってない、いわば非合法の存在としてはじまってるからね。
それぞれの宗派のトップである五山のお寺さん、南禅寺や東福寺や建仁寺や大徳寺なんかはさすがにデカい境内を持っているけれども、それ以外は、ちっこいお寺さんばっかりです。ちっこいゆえに、洗練が進んだとも言えるけれども、それはまたべつの話。

一方で、東寺は、さすがに官の建てたお寺さんだけあって、広大なのですよ。
しかもこれは、空海が官のお金をふんだんに使って建てたお寺さんですから、密教世界をビジュアルで表現した意匠が、そこかしこにふんだんにしつらえられている、一級のお寺さんです。

僕は、仏像は奈良、庭は京都だと思っているのだけれども、東寺については、別格ですね。仏像も庭も、東寺は一級のお寺さんですわ。なんといっても、お寺さん全体が、世界遺産ですから。

この期間だけご開帳される五重塔内部は、極彩色に彩られた密教空間がひろがっています。
五重塔各層を貫いている心柱は大日如来さん、その周りを四尊の如来さん、八尊の菩薩さんが囲んではります。さらに四方の柱には、金剛界の曼荼羅が描いてあるという…。
菩薩さん8体がぐるりを取り囲んでいるなんて図は、ここだけですから。

ほいで、なんといっても圧巻なのは、講堂です。
通常、二次元で描かれる曼荼羅を、仏像を勢揃いさせることで、三次元化しています。つまり、立体曼荼羅。
曼荼羅は、密教世界の理と智慧を伝えているわけですが、それを立体化することで、より具現化することができます。
ここで曼荼羅の理と智慧を書くには紙幅が足らなさすぎるので割愛するけれども、まーとにかく、見るだけでも圧巻で、なにも知らずとも、立ちすくんでしまうようなシロモノですから。

中央に大日如来さんを配し、その周りに4体の如来さんを配した五智如来。
右側には、金剛波羅蜜多菩薩を中心に4体の菩薩さんを配した五大菩薩。
左側には、不動明王を中心に4体の明王さんを配した五大明王。
これらの四方には四天王を守護させ、さらに梵天さんと帝釈天さんまで加えて、合計21体の仏像が並んでます。
いやー、このビジュアルは、今もって先鋭的だと思うし、前衛ですらあります。
しかも、中央に配された、全宇宙の中心的存在である大日如来さんのお顔がね、なんとも凛々しく、威厳に満ち、なんちゅーか、なんとも言えん、お顔でね。吸い込まれそうになります。
とても人間的な顔をしてはるんだけれども、こんな人間は絶対にいない!というようなお顔。
死ぬまでに、何度でも見たいお顔です。

とまあ、仏像を語りだしたらキリがないのでこのあたりにしときますが、次は、庭ですね。

広大な敷地を抱えたお寺さんは京都にもいくつかありますが、東寺の寺内には塀がないために、たっぷりとした空間があって、とっても開放的な気分になれます。

特にこの時期、花が咲き乱れていて、まるで浄土そのもの。
や、そんなことは特に知らなくても、花や緑に囲まれた庭園を歩くのは、とーっても気持ちがいいです。
藤棚、ツツジ、サツキ、遅咲きの不二桜、ショウブ、アヤメ…、色とりどり。

では、庭に咲き乱れる花の写真を。
これ以外の写真とでっかい写真は、Facebookに置いてあるので、そちらもご覧あれ。

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東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺

東寺


こちらは、期間限定公開の塔頭、観知院。密教の研究所みたいなところです。
枯山水の庭「五大の庭」があって、遣唐使として海を渡った空海が、帰朝する際の様子を、庭で表現しています。

東寺

東寺



東寺
京都市南区九条町1
夏期 / 8:30-17:30 冬期 / 8:30-16:30
HP http://www.toji.or.jp/


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松尾大社にて、作庭家・重森三玲と枯山水について考える
カノさん主催の「サロン文化大学」で、神社仏閣観賞のツボについて喋ることになったので、このブログでも、ちょいちょい神社仏閣ネタを挟んでいこうと思ってます。

んで、まず告知。


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サロン文化大学2周年記念『NHK鑑賞マニュアル「美の壷」的な世界(仮)』

日程:

2011年3月28日(月) (19:30開場)20:00〜22:00

時間:

19:30 お店を開け、

20:00 イベントスタート、

21:00 頃に休憩をはさみ、

22:00 イベント終了。

場所:
コモンカフェ
大阪市北区中崎西1丁目1-6 吉村ビルB1F
TEL 06-6371-1800
(電話で申込はできません、道に迷った際ご連絡ください)

料金:
参加費1000円+1ドリンク500円

料理:
ネリkitchenの豊村さんがスタンバイ。
おいしいカレーを準備していただきます。

「晩ご飯を食べるよ!」という方は
申し込みの際、晩ご飯食べるつもりか
どうかコメントいただけますと幸いです。

喋る人は…、

「団地」通:建築家の吉永さん
高槻市の建築家 吉永健一全仕事|団地啓蒙活動
吉永建築デザインスタジオ一級建築士事務所

「寺社」通:web、DTPディレクターのルイスさん
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「観覧車」通:カメラマンの内池さん
ferris wheel diary 観覧車の写真ブログ
エクランの撮影日記

のお三方(僕、含む)。
司会は狩野哲也さんがつとめてくれはります。

お申し込み等の詳細は、サロン文化大学のページを。

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では、本編、行きます。


重森三玲
の名前を最初に知ったのは、30歳過ぎのことでした。

まだ京都の神社仏閣巡りをはじめたころのことで、東福寺に参拝に行った折り、方丈の、それまでに見たどの庭とも似ていない、斬新でモダンな庭と出会ったのでした。

調べてみると、重森三玲という、昭和の作庭家が存在し、彼がつくったのだということがわかりました。
重森三玲は、作庭でだけでなく、東京美術学校で日本画を学び、茶の湯に浸り、生け花の革新を唱えて「新興いけばな宣言」にも名を連ねた、稀代の芸術家なのだということを知りました。イサム・ノグチは、彼から多大な影響を受けています。

禅寺の方丈といえば枯山水の庭がほとんどセットになっているけれども、東福寺の方丈は四方すべてに庭が配されている、日本で唯一の方丈です。
東庭の北斗七星の庭、西庭の大市松の庭、南庭の蓬萊の庭、北庭の市松の庭。どれもこれもが斬新で、既成のスタイルにまったくとらわれていない自由さに溢れています。

まず、これが、東庭の北斗七星の庭

重森三玲


そしてこれが、北庭です。市松の庭。僕、重森三玲にのめり込んでいくきっかけとなった庭。超モダン!

重森三玲


西庭の大市松の庭南庭の蓬萊の庭。大胆、豪胆。

重森三玲

重森三玲


この庭こそが彼の作庭デビュー作なのだけれども、
彼がまだ庭園の研究家として活動していたころ、昭和13年、室戸台風が近畿地方に多大な被害をもたらした折り、東福寺の方丈庭園もまた、激しく傷んだのでした。で、この台風によって庭の修復には困難が予想され、今後の研究が発展しないことを痛感した重森三玲が、作庭に乗り出したわけです。
また、旧態依然とした伝統だけが重んじられ、アートの神髄である自由な発想がまったく無視されていた当時の庭園界にあって、そして昭和期にいたっては将来に誇れる庭が造られていない現実を見るにつけ、彼の芸術家魂に火がついたという側面もありました。

1200年の都にあって、昭和に入ってから造られたお寺さんの庭って、それだけでドキドキしませんか?

といって、彼が、伝統を軽んじているわけでは、ないんですね。
東福寺方丈を例にとると、東庭は北斗七星がモチーフになっていますが、そもそも七という数字は吉兆を示す数字だし、柱石の余材を利用することで、余すことなく使うという、禅の精神を踏襲した庭となっています。
 
南庭は神仙境を表現しているのだけれども、蓬萊・方丈・瀛洲、壺梁の四島に見立てた巨石、砂紋による荒波、四方に五山を築山と、モチーフ自体はありふれているうえに、鎌倉以降の質実剛健さを基調にすらしています。それでいて、自由闊達というか、大胆無敵な作庭。実際、目の当たりにしたら、仰天しますね。
伝統とモダンのミックスと言ってしまえばそれまでだけれども、デザイン能力の高さと、肝っ玉の太さを感じずにはいられません。大胆でいて、洗練もされてます。

いつぞや、年のほんのいち時期だけ公開される、東福寺塔頭の龍吟庵を参拝したときのこと。
そこの方丈庭園もまた、重森三玲作庭の庭であると知り、実際に目の当たりにし、なんという庭か!と、仰天したものです。
もうね、巨大な浮世絵を見るような心地でした。石と砂紋だけで、黒雲を切り裂いて龍が躍動しています。

重森三玲

 
おなじく通常は非公開の、東福寺塔頭、霊雲院南側にあるの「九山八海の庭」

重森三玲


九山八海ですから、これは宇宙全体がテーマです。禅宗においては、宇宙全体といえば曼荼羅という優れた表現があるけれども、重森三玲の表現する宇宙は、大胆かつ、不遜です。
同心円の紋様を白砂に幾重にも描き、中心に遺愛石を据えて、須見山とする。
大胆に抽象化され、かつ、豪快で、不遜です。


優れた芸術は皆、そうなのだろうけれども、彼の庭をまえにして、のんびりほっこり、という気分を求めるのは、無理というもので。
ワクワクし、ドキドキします。冷や汗や脂汗すら、出ます。鑑賞したり味わったりというよりも、対峙させられている気分です。



こないだ、時間をやり繰りして、松尾大社に行ってきました。そこにも、重森三玲の作庭した庭があるのです。最晩年に作庭した、遺作となった庭です。
昭和49年着工、50年完成。僕が生まれてからこっちの時代に、京都を代表する神社に庭が造られたこと自体が驚きじゃないですか。歴史ではなく、リアルタイムです。

禅寺ではないので、枯山水ではありません。お寺さんではなく神社なので、浄土式ということもない。
松尾大社がもっとも栄えたといわれる平安期を表現しているのだとか。曲水の庭といいます。

曲水の庭は、文字通り、曲がりくねった川が庭を貫いています。背後を緑で築山し、手前は敷石で平地を。山から平地を縫うように、縦横無尽に川が曲がりくねっ ています。そして、川面に突き出た無数の青石。この青石はすべて、杯です。川面を無数の杯が滑るように流れてくる…、なんとも風流で優雅な平安期の風景が、この庭には再現されているのです。そのように、風流ではあるのですが、洗練を拒むような豪快さが、この庭には同時に存在しています。風流と豪快さが同居 するそのさまに、呆気にとられます。

松尾大社はお酒の神さまだから、杯がモチーフになるのはわかるとしても、発想の飛びかたが、すごすぎます。

重森三玲

重森三玲

重森三玲


さて、重森三玲の庭と出会ったのとときをおなじくして、僕は枯山水にものめり込んでいきました。
何故に、あれほどまでに具象を削ぎ落とし、狂気の世界とでも呼びたくなるような表現が出現したのか、ということです。

調べていくうちに、
枯山水の呼称は、もともとは仮山水であって、それも鉢山に対抗して名づけられたものだったろう、ということがわかりました。鉢山とは、盆山水のようなもので、鉢に盛ったミニチュアの山水のことです。

『作庭記』という本があります。
平安時代に書かれた日本最古の庭園書であり、寝殿造の庭園に関することが書かれていて、意匠と施工法が網羅されているのだけれども、そのくせに図がまったくなく、すべてテキストだけで構成されているという、なかなかの奇書です。
平安期に書かれた本なので、枯山水出現以前のものです。まだ、石組みは存在しません。
存在はしないけれども、本来の庭園作法ではけっしてそこに庭を造ってはならないとされた場所に、石組みが出現した、と、かろうじて記されています。

この、一種、禁断の地に現れた石組みこそが、仮山水です。

真名のオルタナティブとしての女文字である仮名がひっそりと出現したように、真正の山水の矮小化を旨とするのがそれまでの庭園のメイン・ストリームであったなか、仮の山水が試みられ、矮小化の対抗手段としての抽象化が、ひっそりと出現しました。

なぜ、そのようなものが出現したのか。

ひとつの例として、細川勝元が妙心義天を竜安寺の草創に招いたときの高足だった鉄船禅師の試みを、引きます。
般若道人とも称した鉄船は、文明9年の『仮山水譜并序』に、意訳すれば、こんなことを書いています。

そもそも庭園などというものは、資金があればどんなに珍しい樹木も持ってこられるし、各地の立派な巨石だって集められるものであって、そんなふうにして大庭園をつくったからといって、それで風流の心が満足できるとはかぎらない。
だが、我々のような貧しい者は、資金がないからといって庭園を造れないと諦めることはない。無論、大樹も巨石も集められないから、このたびは工夫して、一石一木をよく選び、これらで小さな石を組み、ここに仮の山水ともいうべき小さな庭を完成させた。
こうして完成させてみると、このような小庭においても五岳を感じることはできるし、大海を遠望する気分にもなれるというものである。それゆえ、得心のいく庭をつくるには、必ずしも富者豪族ではなくとも、自分のような貧しい者がそれをつくる可能性はじゅうぶんにあったのである…。

この鉄船の言葉は、村田珠光から武野紹鴎に及んだ侘茶の草庵の出現の経緯と、ピッタリと重なっています。
仮山水が貧者の一徹によって生まれた可能性を示すとともに、禅の精神を考えれば、その仮山水がやがて寺院塔頭の枯山水として、大きく引用されていっただろうことをさえ、雄弁に告示しているではないですか。

無論、これだけで枯山水が確立したわけではありません。

ここにはもうひとつ、残山剰水というモノの考えかたが、庭園に及びます。
白砂を用いて、残余を表現する。これはすなわち余白と空白の導入ですが、逆にいうなら、引き算の実験です。
なにかを削ぎ、残余を出現させ、余白と空白に積極的な意味を持たせていく。
仮山水が窮余の一策としての抽象化だとすれば、そこに積極的な意味を持たせることによって、仮山水は大きく飛躍し、枯山水となります。

このあたり、日本の山水感覚のみならぬ造形感覚の全般におよぶ、ヴァーチャル・リアリティの感覚のキモがあるように、思うのですよ。

思っていたら、つい最近、思い知らされたのだけれども、そんなことは、重森三玲がとっくのむかしに気づいていたのでした。
重森三玲は、日本人に「空」が飛来した、と、書いています。
まさに、「空」であって、また「白」であって、また「余」というものであって、「負」というもの、だと。

京都は吉田に、重森三玲邸書院があり、公開されています。
吉田神社の社家である鈴鹿家所有の江戸期本宅を譲り受け、新たに自作したふたつの茶席、書院前庭園や坪庭がつくられている、新旧融合の興味深い場所です。さらには、社家建築の趣を伝えるほぼ唯一の遺構でもあります。

近いうちに行ってきます☆






松尾大社 曲水の庭

京都市西京区嵐山宮町3
HP http://www.matsunoo.or.jp/index-1/index.html
mapを見る



下鴨神社に「光琳の梅」を見にいく
激動の2月をくぐり抜けて、久しぶりの休暇。京都は下鴨神社に、光琳の梅を見にいってきました。

僕、尾形光琳という日本画家が大好きでしてね。
繊細さとダイナミックさが同居していて、なんというか、スケールが大きくて、王さまの芸術とでも呼びたくなるような趣です。

なかでも傑作の誉れ高い「紅白梅図屏風」は、死ぬまでに一度は見たいなあと願ってる作品でして。熱海のMOA美術館にあるんですが、熱海に用事はないし。。
あ、これが「紅白梅図屏風」です。



で、しゃーなしに…、しゃーなしってこともないけれども、尾形光琳が「紅白梅図屏風」を描く際に参考にしたという梅、名付けて「光琳の梅」が、下鴨神社にあるんで、何年かに一度、こいつを見にいきます。

この時期だけなので、下鴨神社に行く人はたくさんいても、光琳の梅を知っている人は、意外と少ないみたい。でも、この時期、下鴨神社の南にひろがる糺の森には椿も咲き誇っているし、訪れるのにはいい季節です。緑はさすがにまだ少ないけどね。


下鴨神社は京都で一番古い神社。上賀茂神社の親でもありますが、みたらし団子の生みの親でもあります。御手洗川も御手洗社もあるしね。
す ぐ横には京都のジャングルというか、人の手の入っていない数少ない森、糺の森がありまして、さらにその向かいには京都家裁があります。「糺す」と命名された森の横に裁判所があるというのは、偶然なのかどうか知らないけれども、なかなか意味深ですな。もっとも、本当のところは、賀茂川と高野川の合流点にあるの で、只洲→糺す、となったとする説が有力だけれども。

この森を縫うように下鴨神社の参道が続いており、天気のいい日には、原生林の森から木漏れ日が射し込んで、とーっても気持ちがいいです。この森は、夏に来ると虫が多くて閉口するけれども、それ以外の季節だと、いつ来てもいい気持ちになれます。市中のど真ん中にこういう森を抱えているところがね、京都の奥深いところです。この森は、里山の森ではなくて、正真正銘の原生林だから。

さて、目指すは、本殿横にある「光琳の梅」です。幸いなことに、人影もまばら。  

いやいや、艶やか! お見事です! って梅。
御手洗川に架かる輪橋(そりはし)のたもとにね、1本だけなんだけれども、それはそれは見事な梅が。。
ちょっとね、これ、溜め息が出ますよ。
1本しかないからなおさらだけど、すんごい、フォトジェニックな梅です。

光琳の梅

光琳の梅

光琳の梅

光琳の梅

光琳の梅

光琳の梅

光琳の「紅白梅図屏風」の梅はかなりリアリスティックに描いてあるけれども、この梅をそのまんま模写するように描いたわけではないですね。
眺めていて、そう思いました。
そうではなくて、この梅が持っている本質、それは王さまの梅とでも呼びたくなるような桁外れの艶やかさと華やかさ、それこそを、光琳は屏風に写しとったのだな、と、この梅を見て、いつも思います。

光琳の作品は、どれも、規格外です。繊細さと大胆さが同居するというウルトラCを内包するのが光琳の作品の特徴だと僕は思っているのだけれども、そういう光琳だからこそ、この梅が心に響いたのだな、と、そんなふうに思いましたな。

ところで、この梅を見ていて、あっ!と思ったことがあります。
光琳が描いた「紅白梅図屏風」は、真ん中を大胆に川が流れていて、屏風を左右に仕切ってしまっている構図で、これがね、この場所の地形を想起させるのですよ。
nがYの字になっているのが、光琳の『紅白梅図屏風』です。
きっとね、この地形にインスピレーションを得たのではないか、と、僕は思うのですよ。
大胆さは光琳の代名詞でもあるけれども、まさにね、地形の大胆さがそのまま構図に写し取られています。
そういうふうに考えると、なかなか楽しい妄想ができるじゃないですか。

これで『紅白梅図屏風』の実物と対面する日が、ますます楽しみになってきました☆
誰か、熱海に行くような仕事をくれませんかね?(笑)
もしくは、屏風を熱海から関西に持ってきてくれるとか(爆)


帰り道、再び糺の森を歩いていると、鮮やかな椿を見つけました。

光琳の梅


そして、御手洗川を流れる、一輪の落ち椿。風流。風流。

光琳の梅



神社をあとにした住宅街の玄関先で、心尽くしの梅の鉢を発見☆

光琳の梅






下鴨神社 光琳の森
京都市左京区下鴨泉川町59
HP http://www.shimogamo-jinja.or.jp/
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京都の高野第三住宅と紅葉
京都は洛北、大原通を北に歩いていきますと、高野第三住宅という大きな公団住宅の団地があります。
明治40年にカネボウが紡績工場をこの地に建てたのですが、昭和56年に住宅公団が買い上げて住宅地としたのが、高野第三住宅。

当時の煉瓦建築がそのままでたくさん残っている、珍しい公団住宅ですわ。

ボイラー室を改良して集会所や管理事務所にしたり、煉瓦塀なんかが残されてます。
京都まで仕事に行った折り、ちょいと見物してきました。

まだ紅葉が残っていて、煉瓦とよくマッチしていますね。

高野第三住宅

高野第三住宅

高野第三住宅

高野第三住宅

昭和56年に住宅スペースが建てられ、そこは普通なのですが、当時の面影をそのまま残している集会所や管理事務所、煉瓦塀などに目を遣ると、いろいろなことが想像出来て楽しいです。

外塀と内塀があるのですが、外塀は、中と外をわけるだけでなく、逃亡防止用だったそうです。だから、ビックリするくらい、背が高い。

1920 年代、ここで働いていた職工さんは3400人いたと言います。寄宿舎の清和寮には2500人の女工さんさんたちが高い塀に囲まれて暮らし、なかには映画館 まであったそうです。この塀のなかだけで、職住のすべてが完結してしまう、独立した地域のようだったんでしょうね。現在では、隣接する場所にイズミヤがあ るのですが、もとは鐘紡のグラウンドでした。
会社全体で職工さんの生活の面倒を見ていた、ということです。
ただ、そういえば聞こえはいいですが、逃亡防止を兼ねた高い塀だったということは、やはり、それだけキツい労働を強いていたということでもあるのでしょう。女工哀史なんかも、残っているかも知れません。

外塀をくぐると、ほどなくして内塀が現れます。塀の上部がのこぎり型のフォルムをしていて、この塀が工場の塀だったことが、すぐにわかります。

高野第三住宅

高野第三住宅


裏へまわってみると、塀の一角にお地蔵さんが祀られていました。煉瓦に囲まれたお地蔵さんも、なんだかいいもんですね。

高野第三住宅


部外者なので、そうそうなかには入っていられないんですが、住宅に引っ付いているかたちで、不思議なものを見つけました。どのように再利用されているんでしょうかね?

高野第三住宅

高野第三住宅


この、高野第三住宅は、「京都の近代建築を考える会」によって、明治期から戦前までの建物を表彰する「市民が選ぶ文化財」に選ばれています。
京都は、明治維新で皇族が江戸に移ってから、政府に見捨てられた場所です。
なので、これからはお上に頼るのではなく、自前でなんでもやっていこう!という気運が高まり、全国に先駆けて小学校を建設し、大学を設立し、企業を誘致して、盛り返していったんですね。
京都といえば、伝統や日本美といったものが真っ先に思い浮かぶけれども、今もむかしも、都というところは、新しいものを取り入れるのが大好きな、進取の気風を持った場所です。
だから、明治期にもたくさんの建築物が建てられ、それらだけをピックアップして巡っている人もいますな。

歴史ある建物も、放っておけば、知らず知らずのうちに容赦なく壊されていくもんですが、そのままのかたちで残すことが難しいのだとしても、せめて、こうやって一部を生かすだけでも、いっぺんに素敵なものになりますね。
なんといっても、むかしの建造物は、効率だけを考えてつくられたものではないから、様式美があります。
この煉瓦も、なんだか今の煉瓦よりも暖かみを感じるのは、どうしたことなんでしょうかね?

ここ、賃貸で、空き物件がいくつか出ていて、興味本位で調べてみたことがあるんですが、2DKでね、ちょっと狭いんですよね〜。もちょっと広かったら、住むことを考えるんだけど。。。




高野第三住宅



金閣へ行く
金閣寺


よくある話、というもののひとつではあるのですが…、
「ここに金閣寺がなければ、どんなに素晴らしいものか」
「どうして?」
「オレが金閣寺を造る」
というものがあります。

大北山の麓。金があれば誰でもなにか大きなものを造ってみたくなる場所ですな。

むかし、ここは地方豪族の中資王の領地でした。これに目をつけたのが西園寺家の創立者、西園寺公経。公経は承久の乱のときに北条氏の味方となり、その功績を買われて太政大臣になった男ですから、政治の力量も相当にあったのでしょう。
政治力もあったけれども、生来の建築好きでもあり、ここに目が向いたらカーッとのぼせ、尾張にある荘園と交換してしまったのでした。
室町時代のことですわ。
スケールはだいぶ下がるけれども、先祖伝来の田舎の土地を売って都会の外れに建て売り住宅を買うサラリーマンのようなものですな。

念願叶って手に入れたこの土地に、公経は結構を極めた寺院兼別荘を造り、西園寺と命名しました。貴族としての自分の家名も、大宮から西園寺に変えてしまったのだから相当なものですが、もっとも、家名は家号(屋号)だと考えれば、どうということはないです。

西園寺の寺境はなかなかに広大なものでして、その北には公経の別荘が建てられ、北山殿と呼ばれるようになりました。
贅を尽くした貴族の邸宅としては藤原道真の法成寺殿が有名だったのですが、公経は、この法成寺殿に張り合うつもりだったのだといわれています。

法成寺が素晴らしいと世間はいうが、北山殿には山の景色というアドバンテージがある。都を離れた眺望のよさに叶うものはない。

と、『増鏡』にあります。まあ『増鏡』は、西園寺家のパンフレットという側面を持っていますから、そういうことが書いてあってもいいのですが、どこまでが本当なのかは、眉唾ですな。教科書に載っているテキストだからといって、簡単に信用しないように(笑)

法王や天皇がやってきて、滞在することもありました。
南朝勢に追われてしばらく近江に逃げていた天皇は、この北山殿に仮住まいしていたとか。

その後、西園寺の隆盛に衰えが見えはじめ、しばし、荒廃します。

3代将軍足利義満がここへ新しい北山殿を再建したのは、応永4年(1397年)。
で、その北山殿の舎利殿として造られたのが、金閣です。
将軍義満のすべては、この金閣寺に代表されるといっても過言ではないですな。

足利幕府を開いた尊氏は隆盛を見る間もなく没したけれども、義満は、いわば、生まれついての将軍であり、富と権勢をほしいままにするという、なんとも羨ましい境遇でね。

ただ、これほどのモノをつくる人物なのだから、野心に底がなく、常人には理解しがたい、破天荒そのものでもありましたな。
明国に対して、天皇を飛び越えて日本国王を名乗ったので、明の皇帝に臣従する礼をとったのはけしからん、ということになっています。しかし、義満にいわせれ ば、オレは将軍を超えた存在であり、将軍の権威は天皇によって授けられるが、将軍以上の存在であるオレが天皇を無視するのは当然だ、という論理なのですよ。
明の皇帝に臣従したのも、こうしなければ自分の権威を裏打ちするものが得られないからです。
要するに、天皇よりもでっかい存在をバックにつけて、日本国内では一番エラい存在を目指した、と。

明国貿易の利益を一手に収め、国内では守護大名の上に君臨する専制君主となったのが、義満です。
その明国では、黄金がなによりも尊重され、工芸品の価値は、黄金をどれだけ使っているかで決定される風潮でありましたから、義満が君臨する日本国も、黄金の世界に巻き込まれたわけです。
日本はエル・ドラドということになっていましたから、金閣は、金閣以外ではあり得なかったのですね。

義満以前にも金をふんだんに使った建築物はあります。
中尊寺もまた、古くから黄金郷と呼ばれたところですな。
義満がすごかったのは、金を直接召し上げるのではなく、金を流通させるシステムを構築し、流通経路のすべてから税を徴収したことです。これで、何倍もの富を築くことが出来るようになりました。

総工費は百万貫を超えていたといいますから、現在の価値に直して、どれくらいのものですかね? 昭和62年には総額7億5千万円をかけて漆の塗り、金箔の貼りが行われています。だからそのあたりの金額になるかと思ったら、ところがどっこい、これが大間違い。往時の金閣は、今の何倍もの領地を誇っていましたから。

造営工事を分担させられた大名たちは泣く泣く協力し、その名残は鏡湖池に点在する巨大な細川石・畠山石の名に伝わっています。もっとも、大内義弘はただひとり、工事分担を拒否。
武士なのだから弓矢(戦)で仕えるのみ、と、なかなか威勢のいい啖呵を切ったのですが、この反抗が災いの元となりまして、まもなく滅亡させられてしまいます。
しっかし、自分のいうことを聞かないからといって、一族もろとも滅ぼしてしまうようなトップって、商売人からすれば、あり得ませんけれどもね。このへんも、義満の破天荒っぷりが見てとれますが。

応永8年(1401年)、義満は北山殿に日本国の政庁を置くことを宣言。
すでに7年もまえ、義満は将軍職を息子の家持に譲っていて、将軍の政庁は室町にありましたから、室町と北山の2元政治になってしまいはせぬかとも危惧しないわけではないのですが、室町との競合など、起こるはずもありませんでした。それほど、義満の権勢は凄みがあったのですね。

でもですな、義満が亡くなると、広壮華麗な北山殿を維持する力は、幕府にはありませんでした。
財政もさることながら、義満のような桁外れのスケールを持った政治家など、何代もおなじ家から続いて出るわけがないのですから。

金閣寺は正しくは北山鹿苑寺といいますが、その鹿苑寺というのは、義満の菩提を弔うために金閣を中心にして建てられた寺院全体を指します。勘違いしている人も多いですけれども、金閣が先で、鹿苑寺が後なのですね。

北山殿の金閣以外の建物は解体されて、南禅寺や建仁寺などの禅宗寺院に移築されました。
したがって、義満に直接のかかわりのあるのは金閣だけになってしまったのだけれども、それでも庶民からすれば、キンキラキンの建物は人気がありますから、江戸時代には早くも料金を納める者には拝観を許すようになっていました。
京都と大阪に旅した江戸時代後期の物語作家、滝沢馬琴が、
「1人から10人までは、銀2匁を寺僧に渡せば庭の門を開けて、入れてくれる」
と、書いています。他の寺院については、なんとも書かれていないのにね。

ま、その金閣も、1950年にはひとりの僧によって放火され、炎上してしまいます。
このあたりのことは、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』や『金閣炎上』に詳しいですな。


ということをですな、このクソ忙しいさなかに日本にやって来たブラジル人のオッサンを接待せねばならぬことになりまして、金閣に案内して説明せねばならんかったのですよ。
ブラジルの公用語はポルトガル語なのですが、ポルトガル語なんて一切喋らんからな、スペイン語しか喋らないから、それでもちゃんと理解しろよ!と、釘だけは刺してですな、ややこしい説明をしてましたですよ(笑)
ま、ポルトガル語とスペイン語なんて、大阪弁と標準語程度の違いしかないね。

以下、今年の金閣をアルバムから抜粋。
ここの紅葉は早くから赤く染まる種類なので、なかなかいい感じです。でも、人が多すぎて、やっぱ、この時期はどうにもなりませんな(笑)

奈良の春日大社を見たときにも思ったし、秀吉がつくらせた黄金の茶室を見たときも思ったのだけれども、黄金と漆の赤というのは、並みの神経では調和させることなど出来ませんが、力のある人間が圧倒的なスケールでこれをやると、美の極致とでも言いたくなるほどの艶やかなものが出来上がります。

なので、紅葉の時期の金閣は、一見の価値があります。

金閣寺

金閣寺

金閣寺

金閣寺

金閣寺

金閣寺





鹿苑寺舎利殿 金閣
京都市北区金閣寺町1
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だるましかない…。
だるま寺(法輪禅寺)


今週は、どういうわけか京都ウィークになってます。
えーっと、連日京都に行っているというわけではなくて、まとめてアップしてます。お蔵出しですわ。

北野天満宮付近は、電車が走ってないので、お寺さんに行くにしても交通の便がよろしくなくて、わりと後まわしにしてきたのでした。で、ようやく行ってきたのだけれども、行ってみたら、あたり☆というか、ワンダーランド!みたいなお寺さんばっかりで、ヤバいです(笑)

今回は、そのなかのひとつ、だるま寺を。

京都は円町にある、だるま寺。一応、法輪禅寺という名があるのですが、観光マップにすら、だるま寺とだけ書かれております(笑)

だるまといえば、禅宗の開祖、達磨大師。
達磨大師は中国の少林寺で修行したインドの高僧ですが、壁に向かって9年間、座禅を組んだお坊さんです。その過酷な修行は、座禅を組みすぎて手足を腐らせるほどでね。だから、だるまには手足がないんですが…。
そ うやって開眼した悟りの境地って、あまりに狂気すぎて僕には想像すらつきません。禅の精神を表した枯山水の石庭も、あそこまで世界を抽象的に見るって、 やっぱ、狂気の沙汰だと思いますわ。よく、禅とわびさびを重ねる人がいますけれども、わびさびの境地を体得するまでの過程は、やっぱ、狂気ですよ。
だって、手足が腐るまで座禅組んで、9年目にして開眼ですよ。そんなもん、常人には無理でしょうが。ましてや、禅の修行って、今でも過酷だし。まあ、宗教から狂気を抜き去ると、宗教は宗教でなくなりますが。

仏教は、もともとが、人々の救済なんか目的としていなくて、個人が解脱するための身体的精神的な鍛錬のマニュアルを説いたものですが、そこに大乗の考えが入り、救済が目的となり、仏像という偶像も出来、教典という教科書というか権威のようなものも出来てくるわけです。
そういうものの一切合切を拒否して、修行の中にこそブッダが説いたものの真髄がある、原点に返れ、と、実践したのが、達磨大師ですね。
つまり、仏教のルネサンスを行ったのが、達磨大師。

ただ、そういう禅を爆発的に広めたのは、中国に慧能というお坊さんがいたからです。
この人は、人間にはもともと仏性が備わっているのだから、ただ座禅を組んで、自らの裡にある仏性に気づけばいい、と。
この教えのおかげで、禅は一気に爆発的に広がり、今や、ヨーロッパのキリスト教寺院ででも座禅を取り入れる始末です。
念仏を唱えるだけで極楽に行ける、と説いた、法然さんに似てますね。

というような、禅についてのあれやこれやを知ることが出来るのかな、と、淡い期待を抱いて行ってみたら、そんなことは全然なくて、ここはどう見ても、だるまマニアのお坊さんの拠点にしか見えません(笑)

とにかく、ありとあらゆるところに、いろんな種類のだるまが置いてあって、まさに、だるまワンダーランドですわ(笑)
一応、禅を学ぶ達磨道場の拠点、などと縁起には書かれてますが、絶対に、だるまマニアのための博物館ですから(笑)
だるまマニアの方は、ぜひ☆

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)

だるま寺(法輪禅寺)





だるま寺(法輪禅寺)
京都市上京区下ノ下立売通紙屋川東入ル
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右から見るか、左から見るか…。
京都シリーズではないけれども、昨日に引き続き、です。

じつは、京都市内のお寺で事前予約なしで行けるところはあらかた行き尽くした感があって、狙い目は、山科です☆といっても、京都からJRでひと駅だし、地下鉄も走ってるし、でも、京都市中とはまた趣が違っていて、ここは穴場ですな。

今回向かった先は、毘沙門堂
結論からいうと、このお寺さんは、当たり☆
マイフェイバリット・昼寝スポットに、またひとつ素敵なお寺さんが加わりました。

山科は、京都と琵琶湖に挟まれている一角でして、むかしからの要衝。なので交通の便もよくて京都からはすごく行きやすいのですが、行ってみると、京都市中と は趣が少し違います。山がすぐそこまで迫ってきていて、お寺さんも、山寺が多いですね。それでいてそれなりに便利なので、いい場所です。
それに、琵琶湖から京都に水を通している疎水が流れているので、疎水に沿って歩くのも風情がありますわ。 

ちなみに、疎水はこんな風景です〜。

毘沙門堂


さて、毘沙門堂というのは、その名のとおり、毘沙門天をご本尊としている天台宗のお寺さんなのですが、毘沙門天自体はもともとが仏教の外にあるところから取り入れられた、いわば外様の神さんです。仏さんじゃないので、毘沙門天をご本尊にしているお寺さんなんて、まず聞いたことがありません。お寺さんで聞くと、静岡とここにあるきりで、非常に珍しい、とのこと。

古い古いお寺さんでして、創建が703年と言いますから、まだ都が奈良の飛鳥にあったころですよ。
もともとが格式の高いお寺さんなのですが、室町の末期に天皇家が身を寄せたこともあり、その縁で門跡となって、ますます格式が高くなったお寺さんです。
あ、門跡というのは、皇族が出家した際に住まうお寺さんのことです。なので、ここの正式名称は、毘沙門堂門跡。

駅から山に向かって歩いていく道中もゆったりとした地の住宅街を縫うように行くのですが、山の稜線を眺めながらなので、いいかんじです。
途中、疎水もあり、自然がたーくさん残っていて、山里に来た趣がありますわ。
で、歩くこと10分程度。
山の麓にやって来ましたら、毘沙門堂へと続く階段です。
青々としたモミジの青葉がキレイでしてね、これ、しばらくしたら真っ赤になって、さぞかし賑わうんだろうなあと思います。
混むんでしょうけれども、京都市中ほど混むわけないだろうし、今年の紅葉はここにしようかな、と。

毘沙門堂

んで、階段を登りきって山門をくぐると、毘沙門天と書かれた迫力の提灯があって、その向こうに、入母屋式の本堂が。
いやいや、見事にシンメトリーな本堂の背景を山の稜線が横切っていて、なかなかな風景です☆

毘沙門堂

毘沙門堂


ちなみにここはなかなか太っ腹なお寺さんでして、本堂に上がってお参りするだけなら、拝観料を取られません。
本堂の奥にいろいろと見所があるのですが、そこへ行って初めて拝観料が発生するシステムになっていて、京都のお寺さんはどちらも強欲に拝観料を取りますから、これはなかなか貴重な太っ腹具合です☆
しかも、拝観料400円。ほかのお寺さんよりも、少し割安です。

このお寺さんは、絵がね、素晴らしいんです。
まずは、狩野永叔が描いた天井龍。睨み龍ですね。京都だと相国寺や天龍寺が有名ですが、天台宗のお寺さんの伽藍の天井には、この龍が描かれている場合が多いですな。んで、どこの睨み龍も共通してるんですが、この龍ね、どっから見ても自分を睨んでいるかのように、視線がかち合うんですよ。。
もし機会がありましたら、どこぞのお寺さんで天井に描かれた龍を見てみてください。右から見ようが左から見ようが、どっから見ようが、必ず、龍に睨まれてますから。

写真だとわかりにくいですけど、こんな龍です〜。

毘沙門堂

ほいで、この龍を見上げながら、ぐるぐるまわっていたらですな、お坊さんが登場して、
この龍はな…、と、説明開始。
この日、僕は背中に龍が描かれた上着を着ていたんですが、その龍を見るなり、これは中国で買ったんか?と。
なんでかっちゅーと、中国の龍は指が5本で、日本で描かれている龍は指が3本なのですよ。で、僕の背中に描かれた龍は、指が5本。だから、中国で買ったのか?と。
まあ、日本で買った日本製の服ですが(笑)

あと、玉を持っている龍は中国製、持っていないのが日本製の龍。
僕はどの龍も玉を持っているとばかり思っていたけれども、そうじゃないらしいですわ。中国の龍は皇帝の守り神なので、皇帝の象徴である玉を持って描かれるんだとか。ま、仏教とはなんの関係もない話ですが、そんな話を教えてもらっていたですよ。

んで、そのまま次の間に案内されて、そこは宸殿。天皇が来たときに滞在する建物です。
ここにはやり、狩野派の襖絵がふんだんにありましてですね。
ま、狩野派といってもたくさんいますから、なんでもかんでもありがたがることはないんですが、ここの襖絵はいいです! いいというよりも、楽しい☆

「九老之間襖絵」と言いまして、弟子が師匠に教えを請うている風景なんかを中心に絵が描かれているのですが、ぜーんぶ、仕掛けがあります。

オッサンの顔が、右から見ると丸顔なのに、左から見ると面長になっていたり…。
松の木が、右から見ると寝ているのに、左から見ると天高く起きている…。
オッサンの目線が、右から見ると左を向いているのに、左から見ると右を向いている…。
机のかたちが、右から見ると横長なのに、左から見ると正方形に近い…。

毘沙門堂

毘沙門堂

毘沙門堂


写真じゃ、わかりにくいかもしれないですけれども、実際に見ると、変化が実感出来て楽しいですよ。

そんなかんじで、不思議な不思議な絵が、襖に描かれているのですよ。
襖絵の横にいちいち説明書きがないから教えてもらわないと全然わからないんですが、ここで先ほどのお坊さんが登場。まずはここに立って!そのまま襖に沿って歩いて!はい振り返って!ほ〜ら違って見えるでしょ!って(笑)
延々と説明してくれます☆

これは、隠元さんが狩野派の絵師に教えた技法らしいです。
隠元さんといえば、インゲン豆を日本にもたらしてくれた黄檗宗のお坊さんでして、京都は宇治に隠元さんが建立した黄檗宗の萬福寺というこれまたオモロい僕の大好きなお寺さんがあるのですが、そのせいもあって、このお寺さんが一気に身近なものに感じられるようになりました(笑)

麩を使って鰻の蒲焼きそっくりの料理をつくったりする精進料理があるのですが、それを日本にもたらしたのも隠元さんです。精進料理といい、この襖絵といい、どうやら隠元さんは、そうやって仕掛けをつくるのが好きだったみたいですな☆

ちなみにこの技法は、逆遠近法ってのが使われていて、そのせいで、見る方向によってかたちが変わるような絵が出来上がるんだとか。
どこを見ても自分を見ているような視線をつくるのには、両目をね、ロンパリに描くと出来ちゃうんですと。
ロンパリって、わかるかな? 右目と左目の焦点が合ってなくて、どっちかの目が変な方向を向いちゃってる目のことですね。

ほいで、どうしてこんな襖絵が描かれているのかと言いますと、この建物は宸殿ですから、天皇が滞在している場所です。で、この部屋は、天皇を訪ねてきた人が待つ、控えの間です。
待っているあいだは退屈だから、この襖絵を見て楽しんでてください!ってことですね。
だから、襖のそばを、行ったり来たりして遊んでるわけです(笑)
こんなお寺、ないですわ〜。

そこでひとしきり遊んでから、さらに奥へ奥へと行きますと、庭があるんですね。
禅宗のお寺さんだけれども、枯山水の庭ではなくて、ここは池を中心に据えた池泉回遊式の庭園です。
「心」という字の右半分のチョンチョンを島に見立てて、鶴島と亀島にしている、心字を模した池です。
池の向こうには観音堂があります。色とりどりの草花が植えられていて、眺めていて和みます〜。
ここもまた、お昼寝には絶好のスポットですね☆
しばし、縁側に座って、ぼーっと眺めておりました。

毘沙門堂

毘沙門堂


庭を後にして、源氏物語の写本を見たり、そこでまたまたお坊さんにつかまって説明聞かされたり、有名人のサイン色紙が並べてあるのを発見して、お坊さんと、真矢みきの話で盛り上がったり…(笑)
とにかく、おしゃべり好きのお坊さんが多すぎます、ここは☆

最後に衝立発見。
なんと、円山応挙の筆による鯉☆

毘沙門堂

これまた左から見ると左を向いているけれども、右を向くと右を向いているように見える鯉でして。
円山応挙が、ここの襖絵を研究して、独自にこの技法を習得し、書いたものなのだとか。
右から左に歩いて移動するときに、鯉来い!鯉来い!鯉来い!鯉来い!鯉来い!鯉来い!って言いながら歩きや!ってお坊さんに言われたんですが、そんなことせんでよろし(笑)

その他、中庭の松がかっこいい枝振りやったり、カエルのお出迎えがあったり、欄間の装飾に見とれたり…、見ていて本当に飽きないお寺さんです。

毘沙門堂

毘沙門堂

毘沙門堂

毘沙門堂

毘沙門堂

最後の最後、お寺さんを後にするべく山門を抜けようとしたら、またまたお坊さんに捕まってですな…。
もうちょっとお金があると、庭師を入れてバシッとした庭にするんやけどなあ、とか、
ここの毘沙門天像は世にも珍しい座っている像で、でも秘仏やからご開帳されることは滅多になく…。
ちなみに、秘仏の毘沙門像は、全長2寸。つまり、約6cmの小さな小さなお像です。比叡山を創建した最澄が、ときの天皇の守護仏として彫ったのだとか。どうして座っているのかといいますと、天皇が烏帽子のなかにこの像を納めていられるように、安定を考えて座像になった、と。ま、ここのお坊さんの推測だとそう なるのですが、推測を語られてもなあ(笑)

最後まで、おしゃべりなお坊さんに付き合わされてしまいました(笑)

毘沙門堂




毘沙門堂
京都市山科区安朱稲荷山町18
HP http://www.bishamon.or.jp/

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永遠と一瞬は両想い
               

京都は山科あたりへ仕事で行ったので、これ幸いとばかりに、お寺さんに立ち寄ってきました。
山科から醍醐にかけては大ゴマのお寺さんがそろいまくってる黄金地帯なのですが、ちと遠くて、なかなか行けてません。
なので、ちょっとの隙をついて、今回、ひとつだけ行ってきました〜。

行ったのは、随心院門跡


梅園が有名、ということ以外にはなーんも知らずに行ったんですが、ここは小野小町さんが晩年を過ごしたお寺さんなのでした。
醍醐の山の麓にある山寺なのに、ものすごく広くて、どことなく御所に似ていて、格調の高さを思わせます。門跡というのは、皇室出身者が出家し、構えたお寺さんのことですから、格調が高いのもさもありなんなのですが。
ただし、小野小町さん自体は皇室の人ではなくて、貴族出の宮使い。仁名天皇の寵愛を一身に受けた人ですから、扱いとしては、皇室の人間同様だったのでしょう。

で、小野小町さんから連想するんですが、ここはね、小さな御所といった趣があります。
参道が広々としているところも御所を連想させるし、景色がね、計算されまくってますわ。いち山寺でね、こんなにも広々とした参道を持っているお寺さんって、なかなかないですよ。

10個近い堂宇があるので、そのぶん、やはり山門が10個近くあります。
で、山門によって切り取られた風景がね、ことごとく美しくて、どれもこれも、一幅の絵のようです。

醍醐の山を借景にしたり、構図のなかに収まるように松を植えてあったり…、とにかく、これでもかというくらいに計算され尽くしています。

苔むした庭も立派だし、梅園があり、襖絵は三十六歌仙が描かれ…、お寺さんというよりも、名勝庭園のような趣です。

小町さんに思いを寄せる深草少将から寄せられた手紙が埋められているという、千束の文塚。
小町さんがこの水を使って毎日メイクしたという、化粧の井戸。
深草少々の百夜通いの折、小町さんがカヤの実を糸に綴って数をとり、あとにその実をこの地に撒いたものが育ったといわれる、カシの大木。
多くの人たちの手紙を下張りに使ってつくられたという、文張地蔵尊菩薩。

ここは、婦女子さんが喜びそうなアイテムが満載です(笑)
あまりに艶っぽいお寺さんで、お寺さんには似つかわしくない縁起が満載です。

そういうことを思いながら、山門に切り取られた風景を、しばらく眺めていました。

山門に囲まれた四角を額縁に見立てて、その額縁に切り取られた風景を見せるのだから、これは、計算されまくっているわけです。この景色を見よ、と、あたかも写生された一幅の絵であるかのように、そこに飾られているようですら、あります。

その風景を見ていると、僕は、いつも、アンドリュー・ワイエスを思い出します。
彼の描く風景画は、どれもセンチメンタルが溢れていて、そのことを指して、彼は、
私の絵を見てセンチメンタルだと感じる人がいたとすれば、それは、私が、この美しい風景がいつかなくなってしまうことを知りつつも、なくなってくれるな!と思って、描いているからだ、というようなことを言っています。

そのことをね、いつも思い出すんですよ。
ましてや、随心院の山門に切り取られたものは、絵ではなくて、風景。
変わっていくもの、移ろいゆくものでもあります。
風景は移ろい、作庭者が当初考えたものとは、変わっていきます。そしてもちろん、そのことの虚しさ、自分ですべてをコントロール出来ないことの虚しさを、作庭者は、知っています。
知りつつ、それでも、借景を取り入れてしまうのは、なんなんでしょうね? 業なのかな?

ひとときとしておなじ表情を見せない風景を切り取り、かつ、切り取ることでそこに永遠を見いだそうとする作庭者の、自身ではコントロール出来ない、何者かに委ねたその姿勢の潔さがね、僕は好きだったりもします。潔さ、というよりも、儚さ、なのかな。

一瞬と永遠がね、同居しています。
山門に切り取られた風景を眺めていると、いつも、そういうことを思ってしまいます。
ここ、随心院門跡は、そういうことを感じさせてくれる山門が、たくさんあります。


庫裡の入口です。松の姿勢のよさに惚れ惚れしてましたが、屋根の上の櫓もいいかんじです。

随心院門跡


塔頭のひとつ、大乗院の山門。端正です。

随心院門跡


本堂の大玄関から山門を見た図。山門に切り取られた風景が絵のようです。

随心院門跡


山門に切り取られた得ような風景をアップで。

随心院門跡


中庭です。苔が立派なんですが、今年の夏の暑さで元気をなくしていたのが惜しいです。

随心院門跡


本堂と薬医院のあいだにある庭です。手前が本堂。

随心院門跡


入母屋式が見事です。

随心院門跡


薬医院の山門から見た梅園です。これもまた一幅の絵のようで。つつじがいいです。

随心院門跡


本堂です。仏壇正面は、文張地蔵尊像、左が卒塔婆小町像です。

随心院門跡


三十六歌仙がすべて描かれた襖絵。

随心院門跡


こういうのも、定番だけれども絵になりますね。

随心院門跡


梅園横の参道です。御所のように、広々としています。

随心院門跡


梅園から大玄関を臨みます。背後の山は、醍醐山。

随心院門跡


大乗院の山門に切り取られた風景。これまた一幅の絵ですね。

随心院門跡


総門へ至る参道。ここも絵になりますね。

随心院門跡


こういう参道をくねくね歩いて、寺域を進んでいきます。

随心院門跡


薬医院の山門から本堂、その後ろに醍醐山。

随心院門跡




これからの季節、紅葉があるのかないのかは知らないけれども、市中からは離れているし、あんまり人が来ないので、静かでいいお寺さんです。




随心院門跡
京都市山科区小野御霊町35
HP http://www.zuishinin.or.jp/

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