大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 天満橋 〜 世にも珍しい重ね橋
北区の橋シリーズもついにラスト、第19弾です☆

最後は、天満橋。

天満橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋
第14回の毛馬橋
第15回の田蓑橋
第16回の玉江橋
第17回の源八橋
第18回の都島橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋




さて、天満橋は、大阪の天満橋筋の大川にかかる橋で、天神橋、難波橋と並ぶ浪華三大橋のひとつです。 文字通り、北区の天満と中央区の天満橋京町のあいだを結んでます。

天満橋は、大阪では珍しい2階建ての橋になっていて、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっており、天満橋南詰には、天満橋交差点があり、ここより北が天満橋筋、南を谷町筋。
ちなみに、地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過してるんで、3階建てと言うことすらできますな。

天満橋


で、浪速三大橋のひとつに数えられるだけあって、

天満橋周辺は古くから交通の要衝で、平安時代は熊野詣での上陸地、江戸時代は八軒家浜と呼ばれ、淀川を行き来する三十石船の荷を小分けにして、小舟に積み替えて大川を行き来してたときの発着場やったそうです。

そんときは、北岸の位置は変わらんのですが、南岸は、もちょっと東側に橋が架かっていたそうですな。

江戸時代、天満橋の南側には東西町奉行所があり、橋の北にも今でいう官庁街があったんで、天満橋は町人が利用する一方で、こうした役人たちの通勤道であったんでしょうな。ゆえに、町橋ではなく、幕府が計画して予算を付けた広儀橋となったんでしょうな。

でっかい擬宝珠が取り付けられた親柱の高欄擬宝珠が聳え立っていて、それはそれは立派な橋やったんだとか。

その後、明治初期に一度架け替えられるんですが、そんときの橋は、明治18年(1885年)の例の明治の洪水で流失し、復旧の際に、鉄橋に架け替えられてます。
この時代、復旧した大川の橋のほとんどがそうだったように、天満橋もまた、ドイツから輸入された鋼材が使われるんですが、装飾品等は日本製が用いられたんやそうです。

橋の南詰めには、当時、将棋島という小さい島があって、京阪電車がここからで出、鴫野や放出に向かう巡行船の乗り場があったそうです。今の八軒家浜のルーツですかね?

その後、昭和10年(1935年)に、市電の走行に耐えられる構造にするため、現在の橋に架け替えられます。知らんかったんですが、ここ、市電が走ってたんですな!

それから時代は下って、昭和45年(1970年)、ここらの交通渋滞が深刻になり、それを解消させるために、橋の上に覆い重なるようにして自動車専用のバイパスが造られたのでした。
この高架橋は、
全長 162.3m
幅 13m
の、4車線で、取り付け道路を含めた橋の長さは560mという長大なものです。
こんだけ本格的な二層橋は、日本では初めてやそうです。

で、従来の橋は、中央に高架用の橋脚が建てられたんですが、欄干などを改良して、4車線をそのまま確保、歩道も従来の幅をそのまま残してます。

全長 151.0m
幅 19.0m


下を走っていると、上の橋を支えているぶっとい橋脚が見えます。
天満橋


歩道も広く確保されています。
天満橋


かつては市電が走っており、現在は2層の橋になっているので、下にまわってみると、重厚に鉄骨が組まれているのがわかります。
天満橋


下流側を臨むと、長大な天神橋の全景と中之島の東の舳先が飛び込んできます。
天満橋


上流側にはスタイリッシュな川崎橋が。
天満橋




天満橋

大阪市北区天満1

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大阪市北区の主な橋




浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 都島橋 〜 かつてこの橋の上を市電が走ってました
北区の橋シリーズもいよいよラス2、第18弾です☆

今回は、都島橋。

都島橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋
第14回の毛馬橋
第15回の田蓑橋
第16回の玉江橋
第17回の源八橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋




天六の交差点から都島通りを東へ、都島を抜けて守口方面に通じる道の途中に、都島橋はあります。
大川に架かっている橋としては、上流から数えて3番目の橋ですな。
ちなみに、ここは交通量が多くて、たとえば、御堂筋が通っている大江橋や四ツ橋筋が走っている渡辺橋なんかは休日の早朝はガラッガラですが、ここは、休日でも朝っぱらから、結構、車が走ってます。ほいで、橋の下では、釣り竿を垂らしている人が多いです。意外だけど、ここはわりと賑わってる場所なんですね。

都島橋

都島橋


大正11年(1922年)、市電の梅田-善源寺線(のちに守口まで開通)が開通したことに伴って、ここに橋が架けられました。なので、この橋の上をかつては市電が走っていて、そんときは木鉄橋ですが、鉄が使われた橋としては、古いほうですな。そして、市電が走っていたこともあって、そのときの橋としては、まあまあ大きいほうです。
そんときで、
全長 150m
幅 15.0m
です。
ちなみに、市電自体は昭和44年(1969年)まで走ってました。

その後、都島区、旭区が農村から工業地帯へと発展していくのに伴って改築されることになり、昭和12年(1937年)に着工するんですが、その間、太平洋戦争が勃発し、鉄鋼の使用は制限、金属類の回収令も出されて、工事が思うように進みまへん。あのころは、大江橋や淀屋橋の高欄や橋飾塔の金属部までもが木製に取り替えられる時局だったんで、新設の橋の工事の物資なんてとてもとても、ってかんじやったんでしょうね。
結局、打ち込んだコンクリート橋脚が川面から突き出たまま終戦を迎え、物資もなにもないので、そのまま工事が頓挫します。で、完成したのが昭和31年(1956年)。

その間、都島橋の仮橋として、橋長153m、幅員12mの木鉄橋が架けられていて、市電はそっちを走っていたといいます。仮橋の上を走る市電というのも、なかなかスリル満点ですが…。

戦後、工事が再開されたのは、昭和28年(1953年)で、昭和31年(1956年)に竣工。
全長 145m
幅 22m
四径間のゲルバー式鋼鈑桁(←相変わらず、なんのこっちゃわかりませんが。笑)で、その後、昭和44年(1969年)の市電の廃止によって軌道が撤去され、昭和54年(1979年)に拡幅。現在の幅員は26mです。歩道がね、結構広いです。

都島橋


ここにかつて、市電が走ってました。でも、まったくその面影がないですね…。
都島橋


橋の下はこんなかんじ。例によって、パイプが通ってます。市電が走っていただけあって、下を覗くと、頑丈にできている気がします。
都島橋


何本ものワイヤーで固定されています。
都島橋


上流側を臨むと、飛翔橋が見えます。UFOに見えるから飛翔橋と名付けられたのですが、たしかに、この位置から見ると、UFOっぽいですね。
都島橋


下流側を臨むと、JR環状線の鉄橋が見えます。
都島橋






都島橋
大阪市北区樋之口町

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大阪市北区の主な橋


浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 源八橋 〜 橋に受け継がれた渡しの歴史
北区の橋シリーズもいよいよ佳境、第17弾です☆

今回は、源八橋。

源八橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋
第14回の毛馬橋
第15回の田蓑橋
第16回の玉江橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋




源八橋といえば、橋が架かる以前に運航していた渡船の源八渡しが有名で、その名にちなんで名付けられた橋ですな。
地元からの強い要望で源八渡しから源八橋と命名されたんですが、一方で、都島区側の地名である中野をとって中野橋と呼びたい人も多く、名付けというのはなかなか悩ましいものだということが、垣間見えます。

橋は昭和11年(1936年)に架けられたのだけれども、それ以前、江戸時代の初期、右岸の天満側は大阪城代配下の役人の官舎街、左岸の都島区側は農村地帯で、京街道が近かったために、多くの人が、ここの渡しを利用したといいます。
さらに、大川の両岸は桜の名所として名高く、今と変わらぬ花見客で賑わいを見せていた、と。今でも春になると、この橋の下にある中州でバーベキューやらなんやらの花見宴会が多数行われてますな。ちなみに、ここでの火器使用は、一応禁止なんですがね(笑)
さて、渡しの東には中野の梅林があり、人々はこぞって観梅にでかけたという記録もあります。江戸時代以降でこそ桜ですが、それ以前、日本で花見といえば梅ですから、これまた大層賑わったことだと思います。

このころの風景を、与謝蕪村が、
「源八をわたりて 梅の あるじかな」
と、詠んでますな。

摂津名所図会大成には、
「樋の口のほとりにあり天満源八町の濱より中野への舟わたしなるを以ってづくるなるべし 世に名高し」
と、紹介されてます。


この渡しは明治40年(1907年)に大阪市営となり、昭和11年(1936年)の源八橋の架橋によって廃止されます。

明治に入ってものどかな田園風景だった都島区一帯が、昭和10年(1935年)の城北運河の開削によって、工業開発がにわかに進み、渡しでは対応しきれなくなって、橋の重要性が説かれたということです。
で、昭和7年(1932年)にスタートした第二次都市計画事業として、昭和11年(1936年)に架橋。

このあたりのことは、橋の中央にプレートがあって、詳しく書かれてますな。
源八橋


橋の形式としては、6径間のゲルバー式鋼板桁が採用されているらしいです。例によって、建築の専門家でもなんでもない僕には、なんのことやらわかりませんが、とにかくそういうことらしい。ただ、このあたりは比較的地盤条件いいらしいです。大川に架かる橋は、地盤が基弱なところが多くて、地盤を盤石にするために苦心しているところが多いのですが、源八橋だけは、そうした苦労とは無縁の、ここらでは珍しい橋です。

昭和30年後半からは自動車が急増し、源八橋も交通渋滞が定常化したことから、昭和46年(1971年)になって、東行きの左折レーンを増やすため、橋の半分だけが上流側へ拡幅されました。なので、途中から橋の幅が膨らんでいるように見えます。

源八橋


平成10年(1998年)には、歩道部分を拡幅。ちょいちょい工事をやってます。
大阪アメニティパーク(OAP)があるし、環状線の桜宮駅とOAPを結ぶ橋として、車も人も、たくさんの人がこの橋を利用するんで、今でも、交通量は増える一方でしょうな。

源八橋の東詰下流には大阪営林局の貯木場があったんですが、現在では、在阪各大学ボート部の漕艇庫が立ち並んでいて、大阪市民レガッタや桜杯レガッタの大会を見物したり、練習風景を眺めたりと、ボートの風景を見ることのできる橋として、ちょっとしたスポットになってます。

あるいは、天神祭の奉納花火を見るポイントとしても有名で、天神祭のときは、それこそ立錐の余地もないほどの人がこの橋から花火を見物してはります。

話は少し変わりますが、近代上水道が敷設される以前の大阪は、飲料水に悩まされた都市でもありました。井戸水はほとんどが飲み水としては不適で、生活用水として用いられていたので、飲み水のほとんどは水売りと呼ばれた人々が水船で市中各所へ運び、水桶で各家庭に届けていたのですね。
そうした水汲み場のひとつが源八橋上流にあったということで、ということは、このあたりでは、飲み水が川から供給されるほど澄んでいたということですな。

今では考えられんことですが。。。。


橋のすぐ下、大川の川畔から橋に直接上がる階段があります。
源八橋


橋の下をくぐっていくこともできます。
源八橋


上下2車線とそれぞれに歩道。じつはそんなに広い橋ではありません。
源八橋


橋のふもとには、源八渡しの跡碑があります。
源八橋


橋の上流側は、JR環状線の鉄橋があります。
源八橋


橋の下流側には中州がひろがっていて、向こうには桜宮橋(銀橋)が見えます。
源八橋


源八橋

大阪市北区中之島4

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大阪市北区の主な橋




浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 玉江橋 〜 かつてはこの橋から四天王寺が見えました
北区の橋シリーズ第16弾です☆

今回は、玉江橋。

玉江橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋
第14回の毛馬橋
第15回の田蓑橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋




玉江橋といえばなにわ筋に架かっている橋ですが、なにわ筋はもはや北区でもなんでもなく、強烈な違和感があるのですが、南詰めが中之島に架かっており、中之島は北区。そして、玉江橋自体も、北区の管轄になっています。

玉江橋

北向き車線と南向き車線がべつべつの橋になっていて、真ん中に、水道管のような大きなパイプが並行して走っています。

そのために、橋の長さが上流側と下流側とでは違っていて、
全長 上流側 / 77.0m 下流側 / 78.8m
となっています。

例によって江戸の元禄時代に行なわれた堂島開発のとき架けられた堂島5橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)のうちのひとつです。
ただ、このときは、古代大阪に架けられていたとの伝承がある堀江橋という名称だったのだけれども、のちの元禄11年(1698年)に堀江川が開削された際、川と同名の堀江橋が架けられたために、こちらの名称を玉江橋に変更してます。

玉江の由来は、『中之島誌』によると、古代、欽明天皇時代のころ、堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたのだけれども、その場所を玉江と呼んだことから、命名したらしいです。
「江」は、水辺とか水際とか、そういう場所のことですな。

ほいで、堂島川に架かる多くの橋がそうであるように、この橋も、明治18年(1885年)の洪水で流失、すぐに復旧させるんですが、今度は、明治42年(1909年)の北の大火で焼失です。天満からの出火ではじまった大火事の火は福島まで達したといいますが、なにわ筋まで来てたんですね。どんだけすごい火事だったんだか…。もちろん、このときは木橋です。


その後、1929年(昭和4年)の第一次都市計画事業によって、近代的な3径間鋼ゲルバー桁に架け換えられました。ここで、鉄橋化ですね。

その後、昭和44年(1969年)に高潮対策のためのかさ上げと拡幅工事がおこなわれ、この拡幅工事によって、下流側に新橋が架けられ、現在のような南向き車線と北向き車線がべつべつの橋になりました。


こんなかんじで、上流側と下流側に橋がわかれています。
玉江橋


さらに平成3年(1991年)には改装工事がおこなわれ、アルミ製の高欄やタイル舗装、照明灯などが設置されました。


さて、玉江橋から橋3本上流にのぼったところに中之島ガーデンブリッジがありますが、そこに、長谷川等伯が描いた、江戸時代の玉江橋の様子がわかる絵の複製が飾られています。

玉江橋


この絵によると、江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝堂という薬師堂があり、縁日なんかのときには大層賑わったみたいです。橋は蔵屋敷出入りの物資運搬のための貴重な要衝だったんでしょうな。

この時代、橋の南側の中之島は、諸藩自慢の名松の枝が川面を覆って、美しい風景を演出していたようです。今、建築家の安藤忠雄氏が提唱しているのが中之島を桜でいっぱいにするプロジェクトですが、かつて、ここには枝振りのいい松を競っていた風景の現代版を狙っているんでしょうな。

ほいで、このときの玉江橋は反そりの大きな太鼓橋で、この橋を北から登っていくと、真正面に四天王寺の五重塔が見えたことでも有名で、その風景が好んで画題に取り上げられたようです。長谷川等伯の絵も、そういう絵ですね。もっとも、現在は高い建物が多くて、とても四天王寺までは見通せませんが(笑)


今は、どちらかというと、こんな風景を楽しむほうがいいかもしれません。

下流側を臨むと、堂島大橋。
玉江橋


上流側には、田蓑橋が見えます。
玉江橋





玉江橋
大阪市北区中之島4

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大阪市北区の主な橋





浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 田蓑橋 〜 北詰の「蛸の松」は元禄時代の名残
 

北区の橋シリーズ第15弾です☆

今回は、田蓑橋。

田蓑橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋
第14回の毛馬橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋




田蓑橋は、南詰が中之島、北詰は、東側は北区で西側は福島区と、区の境界線上にあります。管轄は北区ですけどね。

パッと見たかんじではたいした橋に見えないんですが(笑) じつは、江戸の元禄年間の堂島開発に際して新しく架けられた堂島5橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)のひとつだったりします。架けられたのは、元禄6年(1693年)。

で、田蓑橋ですが、古代の大阪にあったとされる八十八島のひとつである田蓑島に由来してます。

ただ、この橋も、明治18年の洪水で流失し、鉄骨鉄柱に改造されます。
その後、昭和4年の第1次都市計画事業で近代橋に架け替えられるのですが、こんときの橋は、ロマネスク風のデザインの、大層美しい橋だったそうです。

ところが! この橋が地盤沈下に耐えられず、上部工が架け替えられ、橋体をできるだけ軽くするために、鋼床版桁が用いられているそうです。もっとも僕は鋼床版桁なるものなんてもちろんよく知らないのですが、現物を見るかぎり、なんとなく軽そうです(笑) というか、あっさりしすぎです(笑)

全長 82.3m
幅 14.7m



すごく軽快なかんじがします。というか、あっさりしてますな(笑)
田蓑橋


舗道は車道より一段高くなってるんですが、境目のところには鉄板のカバーが取り付けられています。
田蓑橋


橋の3ヶ所に、半円形のバルコニーが設けられています。
田蓑橋


堂島川の上流を臨むと、こんな風景です。遠くに、渡辺橋が見えます。
田蓑橋



ところで、田蓑橋の北詰には「蛸の松」というモニュメントというか、松の木がありまして、なかなかいい枝振りの松が植えられています。
田蓑橋


江戸時代、中之島に諸大名の蔵屋敷が建てられたとき、各藩自慢の松が植えられ、人々は、屋敷の白壁と川面に映る松の緑の景色を楽しんだらしいのですね。そのなかでも、広島藩主の福島政則が植えたといわれている黒松は、枝振りが泳ぐタコの姿に似ていることから、「蛸の松」と名付けられて、評判を得ていたそうです。

ここにあるのは、その松の名残。
名残というのは、この松は明治の後半に枯死してしまったので、平成16年、護岸の美化にあわせて、大阪教育大学付属天王寺小学校が久留米藩蔵屋敷跡地に開校した縁によって、同窓会である雛松会が、かつての風趣を偲んで、「蛸の松」をこの地に再現したのでした。

この蛸の松については、じつによくできたHPがありまして、ここに紹介しておきます。
はっきりいって、一回のモニュメントごときで、なんでここまで凝ったHPが!と言いたくなるほどの、素晴らしいHPです。

「蛸の松」HP





田蓑橋
大阪市北区堂島3

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大阪市北区の主な橋



浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 毛馬橋 〜 大川最上流に架かる橋
北区の橋シリーズ第14弾です☆

今回は、毛馬橋。

毛馬橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋
第13回の飛翔橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋


さて毛馬橋は、大川の一番上流に架かっている橋ですな。


毛馬の地は俳人与謝蕪村の出身地なのですが、後の淀川改修によって、蕪村の出身地は、川の中になってしまったらしいです。

毛馬という地名はなかなか変わった地名ですが、もともとこのあたり一帯は湿地帯で、草が生い茂っていたらしいのですね。ま、大阪はどこもそうですが。で、その草が生い茂っている様を「毛」と呼び、そのむかしは、毛島と呼ばれていたそうです。それを縮めて、というか訛って、毛馬、と。

この場所は、古くから渡しの歴史を持っていて、大阪の北部から枚方、京都へ行く人々は、ここの渡しを利用しました。もともとはこの場所が淀川の本流だったので、行き交う船も多く、船客相手に酒や食べものを売る煮売舟で賑わったらしいですな。

で、この場所に初めて橋が架けられたのが、大正3年。
渡しは風雨の激しいときは危険なので、大川の渡しから橋へと通行手段が代わっていったのですが、毛馬は渡しが廃止されて橋が架かったのは、ずいぶんと遅れたようです。それでも、地元の熱心な架橋運動の結果、木橋が完成。それが、大正3年です。

その後、市街地の拡張にともなって、昭和12年に第3次都市計画事業によって、この地を通る中津赤川線が、造られることになり、鉄橋化された毛馬橋の設計も進められていたようなのですが、これは、資金不足のために日の目を見ずに終わったようです。

昭和21年に中津赤川線は25mの道路として都市計画決定され、昭和36年にようやく鉄橋が完成。
橋の形式は連続合成桁という当時最新の理論と技術によって設計施工されてます。ただし、こんときの橋は幅が8mしかないしょぼいもので、昭和54年になって、当初の計画通り、幅25mの立派な橋となっとります。


下流側に、橋と並行して水道管が走ってます。
毛馬橋


橋の下にも、なにやらパイプが通ってます。
毛馬橋


わりと特徴のない外観(笑)
毛馬橋 


舗道と車道のあいだに、柵があります。大川に架かる橋の中では、柵があるのは珍しいほうです。
毛馬橋


東詰に、毛馬橋が架橋された経緯を記した碑が建てられています。
毛馬橋


下流側を臨むと、阪神高速がキレイなカーブを描いて走っています。右下のドックに停泊しているのは、水都大阪2009に出展しているヤノベケンジ作のラッキードラゴン☆
毛馬橋


上流側には毛馬水門が見えます。
毛馬橋



橋長 150m
幅 25.0m





毛馬橋
大阪市北区長柄東

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浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 飛翔橋 〜 天神祭の船渡御のとき、奉拝船はここから出ます
北区の橋シリーズ第13弾です☆

今回は、飛翔橋。

飛翔橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋
第12回の渡辺橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋



飛翔橋は、大阪市が大規模住宅開発を進めている淀川リバーサイドタウンと都島を繋ぐ人道橋ですな。

全長 103.55m
幅 4.0m

名前からして最近にできた橋だということは想像できるかと思いますが、昭和59年(1984年)に架橋されてます。

橋の一部が阪神高速の下を通るために、空間的な制限を受けることから、二重アーチ構造の鋼トラス橋(←よう知りませんが。笑)で、その形状が、どこか飛んでいるような印象を受けることから、飛翔橋と名付けられたそうです。

軽快な全体像とタイル舗装の歩道のおかげで、威圧感がなく、住宅街によく馴染んでいるデザインだと思いますな。

飛翔橋

飛翔橋

飛翔橋


橋の全景はなかなか美しいモダンなデザインで、見ていても歩いても飽きない美しさがあるんですが、いかんせん、住宅街にあってそれほど利用する道でもなく、ブログで紹介するような機会でもなければ、まず来ません。というか、僕の行動範囲の外で、地元住民のための橋、ですな。


ただ、天神祭の船渡御のとき、船がこの橋のたもとから出発するんですよね。
天神祭の船は、神輿を載せた奉安船は鉾流橋から出発して、ここ飛翔橋のたもとでUターンして、鉾流橋まで帰ります。
で、それの逆ルートを辿るのが、奉安船を迎える役割を果たす奉拝船。奉拝船は、飛翔橋のたもとを出発して、鉾流橋でUターンして、帰ってきます。

なにを隠そう、僕はそのときに初めて、飛翔橋の存在を知りました(笑)


橋への導入部にはふんだんに曲線が使われていて、流れるようなカーブが美しいです。

飛翔橋





飛翔橋
大阪市北区長柄東1

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大阪市北区の主な橋




浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 渡辺橋 〜 渡辺橋から渡辺の地と渡辺の姓を見渡す
北区の橋シリーズ第12弾です☆

今回は、渡辺橋。

渡辺橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ
第11回の水晶橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋



さて、渡辺橋は、北区の堂島と中之島を結んでいて、四ツ橋が通っています。地下には地下鉄四ツ橋線が走っているし、南詰めには京阪中之島線の渡辺橋駅があって、これまた大阪の交通の要衝ですな。

古い記述はどっか行って残ってなくて、江戸時代以前から橋はあったようなのですが、現在の場所とは異なる場所にあったみたいです。
はっきりするのは、江戸時代、堂島開発の一環で架けられた江戸の5橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のひとつとして、架けられます。このとき、現在の場所とほぼおなじ場所に架けられたらしいですな。

江戸時代には、大江橋と渡辺橋のあいだの堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよいほどの盛況で。このころ、交通の要衝となっていきます。

その後、明治18年(1885年)の洪水で橋は流され、直後にイギリスから輸入された鉄橋により復旧された、とあります。このときにいち早く鉄橋化されたわけですが、それは、この橋筋が大阪駅へ通じる重要路線であったためで、江戸時代からこっち、ずーっと交通の要衝だったということです。

さらに市電建設に伴って明治41年(1908年)、都市計画に伴って昭和2年(1927年)にも、それぞれ架け替えられ、現在の渡辺橋は、大阪市営地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策の2つの理由により、昭和41年(1966年)に架け替えられたものです。
その後、平成3年(1991年)に歩道部の改装が行なわれ、現在の姿になる、と。

渡辺橋


欄干がちょっとカッコいいです。
渡辺橋


南詰めのところに、渡辺橋と肥後橋の歴史を記した碑が建てられてます。
渡辺橋


渡辺橋の上を四ツ橋筋が走ってます。
渡辺橋


南詰めには京阪電車中之島線の渡辺橋駅があり、中之島の南側を東西に遊歩道が走っています。
渡辺橋


渡辺橋から下流側を臨むと、向こうに田蓑橋が見えます。
渡辺橋




さて、中之島、大川(旧淀川)、堂島界隈の歴史を調べていると、渡辺の名がやたらと出てきます。
ほいで、四ツ橋に架かっている橋は、ズバリ、渡辺橋。

この、渡辺というのは、どこの誰なのか? はたまた地名なのか?

いろいろ調べてみたところですな、渡辺は、渡しの辺(ほとり)を意味します。
大阪のもともとの地形である上町台地の北端部あたりまで海があったころ、平安時代に、この水陸の結節点に勢力を張った武士団に、渡辺組というのがあったのですね。そのころから渡辺橋の名が断片的に見られるらしいのですが、実態がよくわからんらしいです。
あと、「太平記」に、鎌倉後期の南北朝時代に、楠木正成が渡辺の橋を挟んで政府軍と戦った記述が出てきます。

で、この、渡辺組の渡辺氏ですが、嵯峨天皇の皇子である源融の後裔と伝えられ、約十万あるといわれる日本の名字のなかでベスト10に数えられる大姓ですわ。
源融。
彼、太融寺の実質的な創建者であり、太融寺の名の元にもなってる人です。
嵯峨天皇は皇子の融・明・定・常・信らに源朝臣の姓を授けて臣下に降し、それぞれ後裔は嵯峨源氏と称されてます。嵯峨源氏は名乗りが一字であることが特徴的で、大納言から左大臣になった源融は、紫式部の『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとも言われている人物です。

ここで渡辺氏の歴史を書き出すとなんぼスペースがあっても足らんほどなのですが、かいつまんで書くと、
平安時代の後期、源融から三代ほどくだった源次綱が母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住し、渡辺綱を名乗ったのが、渡辺の祖です。摂津国西成郡渡辺というのは、今の大阪市中央区。

ところで、渡辺氏の血筋には、源氏だけでなく藤原氏の遠藤一族の血が入っていて、渡辺には、渡辺氏と遠藤氏が拮抗して対立していたのが、鎌倉時代やそうです。源平合戦のころにいろいろあって、遠藤氏の一派の羽振りがよくなるんですが、その後、鎌倉時代が終わりを迎えるころには、再び渡辺一派が盛り返してきます。

そのまま室町時代に天皇家が割れて南北朝時代になるころ、渡辺氏は南朝方として行動していたものの、いつの間にか北朝に転向、再び南朝についたりと、複雑に立場を変えていくんですが、この時代、武士団は勝ち馬に乗るために主人をころころ裏切りますから、ここらはややこしすぎて、資料も錯綜しているようです。

ただ、最後の最後は南朝についていて、でも南朝は北朝に吸収されるかたちで統一されますから、以降、不遇を囲ったみたいです。

それでも、渡辺・木津・難波を領する渡辺惣官家は、戦乱に翻弄されながらもよく家を保ったんですが、豊臣秀吉が天下を取るころには、土着の旧勢力に対する締めつけがきつくなって、渡辺氏は、大阪の地を離れて大和に新天地を求めます。

ここで渡辺の嫡流は大阪を離れ、没落の一途を辿るんですが、分家は大阪に残り、最後は徳川家康に仕えて一万石の大名となり、そのおかげで近世に名を残した、と。このあたりで、渡辺橋の名に、渡辺の名が採用されているんだと、思います。

そうそう、渡辺氏は神事に与ったという坐摩(ざま・いかすり)神社の宮司家でもあって、お初天神として有名な露天神社の社家も、じつは渡辺氏です。




渡辺橋
大阪市北区堂島浜1

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大阪市北区の主な橋





浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 水晶橋 〜 この橋は、女性だ
北区の橋シリーズ第11弾です☆

今回は、水晶橋。橋の名も姿かたちも、美しい橋です。

水晶橋



過去エントリーはこちら。

第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋



日本の橋はやさしくて、いつもなにかとなにかを繋ぐ架け橋なのだと、保田與重郎が『日本の橋』に書いているのですが、そーいえば、僕は、はるかむかしに、この橋の上で、当時付き合っていたおねえちゃんと別れ話をしたことを思い出したのでした。

ま、そういう艶っぽい話はともかくとしても、水晶橋というのは、橋の名前もさることながら、姿かたちがキレイですね。近隣にたくさんあるクラシック・モダンな建築物によくマッチしていて、とても好きな風景です。

この水晶橋は、もともとは、堂島川の水量を調節する可動堰として、昭和4年(1929年)に架けられたゲートです。だから最初は、橋ではなかったのですね。
大雨が降ったり、水かさが増したりすると、3つの堰を開けて、大量の水を吐き出していたのでした。そのときは、水晶橋という名ではなく、堂島可動堰という、無骨な名で呼ばれていました。

その3つのアーチが、川幅や水量、水の色や中之島の緑に大変マッチして、なかなか立派で美しい橋になるのは、昭和57年(1982年)、橋面の改装が行われたときです。多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられ、そのとき、名実共に橋となりました。

橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶の輝きに似ているということから水晶橋という名になったという説があれば、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋→水晶橋になったという説があって、名がついてそれほどの時間が経っているわけでもないのに、由来がわかっていない、不思議な橋でもあるのです。

また、夜になると、その橋に設置されている水銀灯が橋全体を照らし出して、透明感のある美しい橋になるのを、無骨な堂島可動堰から水晶橋となって、この橋が、ずいぶんとエロチックな橋なのだということに、思い至ります。

本体のアーチと、その上の9つの小アーチの組み合わせの妙がね、じつに美しく、エロチックです。一見、重厚な趣があるのに、どこか軽やかさを感じさせるのは、曲線がたくさん組み合わさっているからでしょうね。

全長 72.33m
幅 9.09m

橋の上には植栽などが置かれ、歩行者専用の人道橋なので、のんびりと川を眺めることもできます。







人道橋なので、階段でしかのぼれません。
水晶橋


石畳の舗道に、中央には植栽があります。
水晶橋


堰の名残であるアーチのカーブが水面に映ってキレイです☆
水晶橋






水晶橋

大阪市北区西天満2

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大阪市北区の主な橋




浪速八百八橋 北区の橋シリーズ - 中之島ガーデンブリッジ 〜 バブルの遺物、か?
北区の橋シリーズ第10弾です☆

今回は、中之島ガーデンブリッジ。橋名から推測できる通り、最近になってできた橋ですな。1990年(平成2年)架橋。

中之島ガーデンブリッジ



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第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋

ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)
川崎橋
天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)
難波橋(ライオン橋)(堺筋)
鉾流橋
水晶橋
大江橋(御堂筋)
中之島ガーデンブリッジ
渡辺橋(四ツ橋筋)
田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)
上船津橋(新なにわ筋)
船津橋


大阪市北区の橋



堂島川に架かる橋としては、この、中之島ガーデンブリッジだけは、まったく歴史がないというか、要するに、最近できた橋ですな。つか、なんでつくったんだ?(笑)
といいたくなるくらい、利用する人がどんだけいるんだろうか?という場所に架かっていて、渡辺橋から歩いて5分もかからない場所に架かってます。でも、車が通らない人道橋なので、ま、あってもいいんじゃない?ってかんじですかね。

場所柄、中之島遊歩道と堂島公園を結ぶ役割を担っていたり、1990年(平成2年)4月1日の花博開催に間に合わせて、博覧会の成功に一役買うとか、そういう意味合いがあったみたいです。バブルの遺産か?(笑)

全長 77.5m
幅 25m
鋼床版箱桁型
1990年(平成2年)架橋

こうして見ると、人道橋なのに、橋の幅がむちゃ広いです。
人道橋なのはいいのですが、階段があるだけでスロープがないんで、チャリが通れないんですよね〜。なので、チャリダーの僕としては、ちとつらいです。

そして、書くことがなにもない(笑)


人道橋のくせに、かーなり幅広です。そして、階段があるので、チャリは入れません。
中之島ガーデンブリッジ


上から見ると、以下に幅の広い橋かがわかるかと。これが、ガーデンブリッジの由来になってるんでしょうかね?
中之島ガーデンブリッジ


橋の中央に、アート作品というかモニュメントいうか、こんなのが飾られてます。
中之島ガーデンブリッジ


キース・ヘリングの作品でも買ったのか?と思ったのですが、どうやらそうではないようです。タイトルは「そよかぜ」。ふーん。
中之島ガーデンブリッジ


このモニュメントの台座には、8方向にこのような都市名が刻まれたプレートがはめられているんですが、この橋の北東は、アンカレッジと長野を指しているんだそうです。都市が微妙すぎて、まるで実感が沸きません(笑)
中之島ガーデンブリッジ


水都大阪2009の宣伝が、こんなところで行なわれていました。
中之島ガーデンブリッジ


階段の外側の壁面には、これまたアート作品。「流れ」です。ふーん。
中之島ガーデンブリッジ




中之島ガーデンブリッジ
大阪市北区堂島浜1

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大阪市北区の主な橋




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