北区の橋シリーズ第12弾です☆
今回は、渡辺橋。
過去エントリーはこちら。
第1回の難波橋(ライオン橋)
第2回の川崎橋
第3回の船津橋
第4回の堂島大橋
第5回の上船津橋
第6回の鉾流橋
第7回の桜宮橋(銀橋)
第8回の大江橋
第9回の天神橋
第10回の中之島ガーデンブリッジ第11回の水晶橋ちなみに、大阪市北区の中之島に架かる橋は、東から、
毛馬橋(城北公園通)
飛翔橋
都島橋(都島通)
源八橋(扇町通)
桜宮橋(銀橋)(国道1号線)川崎橋天満橋(谷町筋)
こっから西は、中之島に架かってます。
天神橋(天神橋筋 - 松屋町筋)難波橋(ライオン橋)(堺筋)鉾流橋水晶橋大江橋(御堂筋)中之島ガーデンブリッジ渡辺橋(四ツ橋筋)田蓑橋
玉江橋(なにわ筋)
堂島大橋(あみだ池筋)上船津橋(新なにわ筋)船津橋さて、渡辺橋は、北区の堂島と中之島を結んでいて、四ツ橋が通っています。地下には地下鉄四ツ橋線が走っているし、南詰めには京阪中之島線の渡辺橋駅があって、これまた大阪の交通の要衝ですな。
古い記述はどっか行って残ってなくて、江戸時代以前から橋はあったようなのですが、現在の場所とは異なる場所にあったみたいです。
はっきりするのは、江戸時代、堂島開発の一環で架けられた江戸の5橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のひとつとして、架けられます。このとき、現在の場所とほぼおなじ場所に架けられたらしいですな。
江戸時代には、大江橋と渡辺橋のあいだの堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよいほどの盛況で。このころ、交通の要衝となっていきます。
その後、明治18年(1885年)の洪水で橋は流され、直後にイギリスから輸入された鉄橋により復旧された、とあります。このときにいち早く鉄橋化されたわけですが、それは、この橋筋が大阪駅へ通じる重要路線であったためで、江戸時代からこっち、ずーっと交通の要衝だったということです。
さらに市電建設に伴って明治41年(1908年)、都市計画に伴って昭和2年(1927年)にも、それぞれ架け替えられ、現在の渡辺橋は、大阪市営地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策の2つの理由により、昭和41年(1966年)に架け替えられたものです。
その後、平成3年(1991年)に歩道部の改装が行なわれ、現在の姿になる、と。
欄干がちょっとカッコいいです。
南詰めのところに、渡辺橋と肥後橋の歴史を記した碑が建てられてます。
渡辺橋の上を四ツ橋筋が走ってます。
南詰めには京阪電車中之島線の渡辺橋駅があり、中之島の南側を東西に遊歩道が走っています。
渡辺橋から下流側を臨むと、向こうに田蓑橋が見えます。
さて、中之島、大川(旧淀川)、堂島界隈の歴史を調べていると、渡辺の名がやたらと出てきます。
ほいで、四ツ橋に架かっている橋は、ズバリ、渡辺橋。
この、渡辺というのは、どこの誰なのか? はたまた地名なのか?
いろいろ調べてみたところですな、渡辺は、渡しの辺(ほとり)を意味します。
大阪のもともとの地形である上町台地の北端部あたりまで海があったころ、平安時代に、この水陸の結節点に勢力を張った武士団に、渡辺組というのがあったのですね。そのころから渡辺橋の名が断片的に見られるらしいのですが、実態がよくわからんらしいです。
あと、「太平記」に、鎌倉後期の南北朝時代に、楠木正成が渡辺の橋を挟んで政府軍と戦った記述が出てきます。
で、この、渡辺組の渡辺氏ですが、嵯峨天皇の皇子である源融の後裔と伝えられ、約十万あるといわれる日本の名字のなかでベスト10に数えられる大姓ですわ。
源融。
彼、太融寺の実質的な創建者であり、太融寺の名の元にもなってる人です。
嵯峨天皇は皇子の融・明・定・常・信らに源朝臣の姓を授けて臣下に降し、それぞれ後裔は嵯峨源氏と称されてます。嵯峨源氏は名乗りが一字であることが特徴的で、大納言から左大臣になった源融は、紫式部の『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとも言われている人物です。
ここで渡辺氏の歴史を書き出すとなんぼスペースがあっても足らんほどなのですが、かいつまんで書くと、
平安時代の後期、源融から三代ほどくだった源次綱が母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住し、渡辺綱を名乗ったのが、渡辺の祖です。摂津国西成郡渡辺というのは、今の大阪市中央区。
ところで、渡辺氏の血筋には、源氏だけでなく藤原氏の遠藤一族の血が入っていて、渡辺には、渡辺氏と遠藤氏が拮抗して対立していたのが、鎌倉時代やそうです。源平合戦のころにいろいろあって、遠藤氏の一派の羽振りがよくなるんですが、その後、鎌倉時代が終わりを迎えるころには、再び渡辺一派が盛り返してきます。
そのまま室町時代に天皇家が割れて南北朝時代になるころ、渡辺氏は南朝方として行動していたものの、いつの間にか北朝に転向、再び南朝についたりと、複雑に立場を変えていくんですが、この時代、武士団は勝ち馬に乗るために主人をころころ裏切りますから、ここらはややこしすぎて、資料も錯綜しているようです。
ただ、最後の最後は南朝についていて、でも南朝は北朝に吸収されるかたちで統一されますから、以降、不遇を囲ったみたいです。
それでも、渡辺・木津・難波を領する渡辺惣官家は、戦乱に翻弄されながらもよく家を保ったんですが、豊臣秀吉が天下を取るころには、土着の旧勢力に対する締めつけがきつくなって、渡辺氏は、大阪の地を離れて大和に新天地を求めます。
ここで渡辺の嫡流は大阪を離れ、没落の一途を辿るんですが、分家は大阪に残り、最後は徳川家康に仕えて一万石の大名となり、そのおかげで近世に名を残した、と。このあたりで、渡辺橋の名に、渡辺の名が採用されているんだと、思います。
そうそう、渡辺氏は神事に与ったという坐摩(ざま・いかすり)神社の宮司家でもあって、お初天神として有名な露天神社の社家も、じつは渡辺氏です。
渡辺橋大阪市北区堂島浜1
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