国分寺のすぐ近くに、神社らしきものがあって、近づいてみると、「淀川天神社」と書かれていたのでした。
ちなみに、「天神社」は、古い言いかたでは、「あまつかむのやしろ」と読みます。天(あまつ)神(かむ)の社(やしろ)、ってことですね。
都島橋だったか毛馬橋だったかを渡って都島区に入ったところに淀川神社というのがあるので、そこの系列化なにかかと思って調べてみると、全然違いました(笑)
このあたりは、今でこそ長柄東、中、西と東西に三分割されてますが、かつては南北にわかれ、そのすぐ南に国分寺村がありました。で、淀川天神社は、国分寺村の氏神さんです。
というわけで、この近辺には、長柄八幡宮、南長柄八幡宮、淀川天神社と、狭い地域なのにもかかわらず、ちゃんと村々に氏神さんが祀られている、なかなか文明の発達した地域だったということがわかります。
もちろん、この場合の淀川というのは、旧淀川、つまり、今の大川のことですね。
いつごろ建立された寺院なのかはよくわかってないのだけれども、江戸中期に発行された「浪華往古圓」によると、その時点ですでに古い神社であるという認識があったようです。
石碑には、天平10年、行基がこの地を訪れた際に開拓の守護神として天穂日命を祀り、天神社と称した、とあります。
行基といえば奈良時代の人間ブルドーザーというか奈良時代の田中角栄というか、とにかく、近畿一円におびただしい数の土木と建築にかかわっているので、ここも石碑にある通り、行基の発案で建てられたものかもしれません。
ただ、生き菩薩とまでいわれた行基なので、多分に伝説化されていることも多く、果たして、天平の時代に行基が建てたという縁起も、どこまで信用していいのやら、と、僕はにらんでます。
行基が歩んだルートとしては、奈良盆地から河内平野、大阪一円ですから、船でまわった可能性も高く、ここらもまた大川の水辺ですから、その伝でいくと、行基説も、そうそう無碍にはできないので、微妙なところです。
ただ、行基は仏教の私度僧なので、その人が天穂日命を祀り、神社を建てた、というところに違和感があります。いかに、神仏習合の日本とはいえ。
で、国分寺の守護ということならわからないでもないのですが、そういう記述はどこにもありません。
つまるところ、この神社の縁起は、よくわからん、というしかないです。
明治末期、行政主導による神社合祀、つまり統廃合の嵐が吹き荒れ、各地で村の氏神さんが失われていき、この淀川天神社も統廃合される運命にあったのですが、地元の人々の熱心な反対運動により、近隣の神社に合祀されることなく存続。それどころか、ずっと南の砂原屋敷の稲荷を取り込んで末社にしてしまったというので、当時の地元の人々の、この神社への執着はかなり強いみたいです。
なお、現在の神殿(瓦葺流造)は、明治43年に中島村(東淀川区)の神社神殿を買い受け建て替えたもので、享保年間の社殿と推察されています。
古い建造物としては、裏門の鳥居(明治末期まで表門)、明和・寛政年間の石燈籠、宝暦5年の木造彩色狛犬、文化8年の石狛犬などがある、と。
空襲で焼けなかったのだな。
本殿です。
由緒が刻まれた石碑。
鳥居のすぐ横に、立派なイチョウの木があります。ご神木とは書かれてなかったけれども、ほとんどご神木みたいな存在感ですね。
淀川天神社大阪市北区国分寺1-4-1
tel. 06-6353-6537
→
大阪市の北区をグルグル巡るブログのためのmap