大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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兄ちゃんの店のことなど



新地に「兄ちゃんの店」という名前の店がありましてな。ビルの4階にあって、エレベータがないので、階段で上らんとあかんのですよ。
なので、4階まであがったけど閉まってた!なんて悲惨なことにならんように、ビルの外から見えるよう、窓から提灯がさげてあります。提灯に灯がついてたら営業中、灯が消えてたら店仕舞い。
カウンターにイスが5つか6つだけの狭い店でね。メニューは、餃子だけです。あ、餃子以外に、マカロニサラダがあります。
だから、店に入ると、30個!とか50個!とか、焼いてもらう餃子の数だけ注文して、あとは、ほしかったら、マカロニサラダの入った小鉢が置いてあるので、それを勝手にとるだけ。
おっちゃんがひとりでやってる小さな店です。ときどき、中国人留学生の学生さんがバイトでいたりいなかったりします。しょぼいビルの4階でひっそりと営業してるんで、あんまり知られてないんですが、南○や天○など、大阪では有名どころの餃子専門店のオヤジは、この店の兄ちゃんに育てられたりもしてます。

えーっと、この店のことを書きたいのでは、ないのでした。

この店は、新地のクラブのホステスさん御用達の店でして、クラブがはねたあと、ここに来てグチをこぼしたりホッコリしたりしているホステスさんは、たくさんいます。
そんな店だから、新地中の情報が集まってきていて、ホステスさんの移籍話やら新店オープンの情報やら、とあるお店の経済状況やらトラブルやら、この店にいてると、いろいろ耳にすることができます。
関西料理界のドンを自称してる神○川のオヤジがどこでなんの悪さをしたとか、ぜーんぶ筒抜け(笑)

えーっと、この店のことを書きたいのでは、ないのでした。

オレは水商売で働く婦女子さんが大好きでしてね。
なんだかんだいって男社会のなかでね、頑張ってる婦女子さんが、大好きなんですよ。水商売の婦女子さんは、オンナを武器にしてね、男を手玉にとってね、そうやって頑張ってる姿は、ある種、小気味よくて、好きです。

頑張ってね、目いっぱい構えて仕事してるけれども、やっぱ人間だから、どっかで甘えたくもなるだろうし、気も抜きたくなりますわな。
兄ちゃんの店に初めて連れていってくれたのは、仲よしだったクラブのママで、普段はかっこよく振る舞ってるんだけれども、仕事がはねてこの店でホッコリしてるときだけね、弱音を吐くんですよ。そういう時間、そういう風景が、オレは、とっても好きだったりします。

おなじホステスさんでも、クラブの、つまり、口座持ちのホステスさんは厳しい競争をやってますな。
んで、稼ぐホステスさんは、やっぱ、お客さんのことばっかり考えててね、ビックリするくらいに気配りしてます。そのあたり、どの商売でもおんなじだなあ、と思いますね。お客さんからお金を引っ張ることばっかり考えてるホステスさんは、やっぱ、どっかでつぶれていきますね。
だから、真っ当なホステスさんって、お客さんの悪口とかグチとか滅多に言わないけれども、それでもね、ふと気が緩んだ瞬間、兄ちゃんの店でホッコリしているとき、なにかの拍子にね、あのお客さんがね、なんてことを、口にします。
それはねえ、もう、人間だから仕方がないよ、ってレベルでね、ときどき、恨み節めいたことを口にします。そういう瞬間がね、その人の素が見えた気がして、オレは、とっても好きだったりします。

オレは、自分がマイノリティだという自覚があるので、やっぱりね、この世のなかではどこまでいっても少数派でしかないホステスさんたちには、同志的な思いがあります。

惚れた腫れたの世界でもあるし、そこを絡めて商売してるし、婦女子さんばっかりの職場だから、それ特有のものもありますな。
いじめとか、派閥とか…。

今はもう全然行かないけれども、20代のころは、そういう場所で、よく遊んでました。


こないだ、久しぶりに新地をウロウロしていたとき、行こうかなと思ったんだけど、見上げたら提灯の灯が入っていなかったので、ついてないなー、と。
でも、そんなことを思い出していたのでした。

また近いうちに覗いてみよ。




兄ちゃんの店
大阪市北区曽根崎新地1-6-2 福寿ビル4F
tel. 06-6341-0619
17:30-翌2:00
日祝休み
mapを見る


曽根崎川(蜆川)跡碑を見て、河村瑞軒の偉業に思いを馳せる
今年の初め、曽根崎川について調べていた折り、曽根崎川の畔にあった茶屋「河庄」の跡碑を発見し、そのことを書いた記事をエントリーしたのでした。「心中天網島」の舞台となったのが、茶屋「河庄」です。

そんときのエントリーは、こちら。

「茶屋『河庄』跡碑の前に立ち、かつての蜆川に思いを馳せる」



さて今回は、曽根崎川。堂島川の分流で、現在の北新地を流れてました。
今はもうなくなっていて、JR東西線の北新地駅を出たところすぐに、跡碑があります。

曽根崎川(蜆川)跡碑

曽根崎川(蜆川)跡碑



俗に、蜆川と呼ばれてますが、シジミが採れたとか、毛馬閘門が造られたせいで水が淀んでジメジメした川になったことからジメジメが訛って、とか、改修が繰り返されて川幅が縮んだことからチヂミ川が訛って、とか、諸説ありまして、今となってはなにがほんまやらわかりません。

地図を見るとよくわかるけれども、中之島の北側を流れる堂島川に中洲があって、その中洲に、曽根崎新地やら堂島新地やらがあったことになります。で、その中洲のさらに北側を曽根崎川が流れていたので、新地は、陸とは完全に切り離されていたんですね。

見ると、現在の大江橋から水晶橋間で分流して、現在の北新地の新地本通と堂島上通を両岸に西流、ほたるまちや関西電力病院の北を通り、堂島大橋・船津橋間で再び堂島川と合流していたみたいです。

曽根崎川(蜆川)跡碑

曽根崎川(蜆川)跡碑


この地形をつくったのは、17世紀、河村瑞軒によります。
17世紀に河村瑞賢が河川改修し、堂島川の左岸に堂島新地、右岸に曽根崎新地が拓かれ、米会所や歓楽街として発展します。歓楽街を陸地と切り離すのは、今、橋本知事なんかが提唱しているカジノ特区構想なんかとおなじ発想なんでしょうな。
税収を増やすためにもゼニがたくさん落ちる場所はほしい、でもピンク産業やバクチはきっちりと行政でコントロールしたいんで、囲われた場所を用意します、と。そういうことやと思います。

橋もたくさん架かっていたようです。
難波小橋、堂島小橋、蜆橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋。
今は曽根崎川自体がなくなってるんで橋も当然ないけれども、探してみれば、それぞれの場所に跡碑があるかもしれませんね。また機会があれば、跡碑巡りでもしてみたいもんですな。

さて17世紀、江戸時代初期ですが、大川(当時の淀川ですな。中之島のところで分流して、堂島川と土佐堀川になります)は、河口付近の港が、上流から流入する土砂によって、ちょくちょく港が閉塞していたらしいです。当時の物流は海運がメインなので、これは由々しき問題。
で、問題解決のためには、上流の治山と下流の治水を一体的に整備しなければならんという認識に至り、河村瑞軒に白羽の矢が立ちます。

河村瑞軒といえば、東廻り航路と西廻り航路を開拓したオッサンです。

秋田の酒田から日本海沿岸を北上し、津軽海峡をグルッとまわって太平洋に抜け、三陸沖を伝って江戸に入る航路が東廻り航路。
おなじく秋田の酒田から逆に日本海沿岸を西航し、関門海峡を抜けて瀬戸内海を東航し、紀州沖、遠州灘を経て江戸へ入る航路が西廻り航路。この航路を走る船は、北前船ですな。
このふたつの航路が開拓されたおかげで、物流に要する時間と費用を大幅に短縮することに成功させたのが河村瑞軒ですわ。さらに、寄港地の入港税免除や水先案内船の設置など、海運にかかる諸々の整備も行なったというので、まさにロジスティックの神のようなオッサンではないかと。

その河村瑞軒が、曽根崎川を拓きます。
下流の河口付近の土砂堆積問題だけじゃなくて、しばしば氾濫した淀川の治水も、これで安定したみたいですな。このプロジェクトの一環で、安治川も開拓してはりますわ。
ロジスティックだけじゃなくて、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などのプロジェクトを指揮していて、国交省と運輸行政とエネルギー行政と、とにかく横断したジャンルのスケールがでかくて、グランド・デザインが描けた希有な人材ではないかと、その業績をちょっと振り返ってみただけでも思います。

伊勢の貧しい農家の出ですが、江戸に出て幕府の土木工事の人夫頭になったのをキッカケに、土木・建築の仕事を請け負うようになって大儲け。一躍セレブ入りします。最後は旗本に格上げされてますから、当時としては、考えうるかぎりの大出世ですな。

その河村瑞軒がつくった曽根崎川は、1909年(明治42年)、「北の大火(天満焼け)」の際に、復興の過程で瓦礫の廃棄場所となり、埋め立てられます。

ちなみに、北の大火についてのエントリーは、こちら。

「101年前、北区に超ど級の大火事があったのでした」




北の大火前後に新淀川(現在の淀川)の開削工事が進められていたので、治水と加工の土砂堆積解消のためにつくられた曽根崎川の役割も終わった、ということですね。

ご苦労!






曽根崎川(蜆川)跡碑
大阪市北区曽根崎新地1-5
mapを見る






茶屋「河庄」跡碑の前に立ち、かつての蜆川に思いを馳せる
茶屋「河庄」跡碑


キタは相変わらず再開発が進んでいて、超高層ビルや巨大地下街といった「つくりもの」がよく似合っていて、それこそ遊園地やテーマパークといった趣もあるわけだけれども、といって、実際のテーマパークのような、統一されたテーマに沿って都市が形成されているわけでは、ないです。

地勢的、政治的な思惑もさることながら、地相だとか地霊だとかいう因縁話めいた不合理な理由によって、自由な「つくりもの」であるはずの都市形成が、規制されもします。
その意味で、都市は、つくりものでありながら、暗黙の拘束によって過去を受け継がざるを得ないですね。
もっとも、そうした闇のようなものがあってこそ、都市は生きているし、闇の深さだけ眩しい光があって、重層的な深みが出てくるのだとも、グルグルと北区をチャリで走りまわっていて、実感します。

北区は水路を必要としなくなって久しいですが、それでも、表層の変貌だけでは拭いされない微細な表情が残っていて、水路であったことすら忘れ去られていたとしても、水が流れていたころの痕跡を残しているところが、いくつかあります。

むかし、曽根崎新地と堂島のあいだには曽根崎川が流れていて、その北側の梅田一帯は田園地帯で縦横に小川が流れていたといいます。

曽根崎新地1丁目のスエヒロの裏手から南側に抜ける道があって、裏道というと暖簾を上げている店には失礼だけれども、勝手口のほうが多いので、そういう雰囲気を漂わせてます。
この道、スエヒロから緩く下りになっていて、この微妙な傾斜が、かつてここが水路だったのだろうな、ということを、感じさせます。

この水路は、曽根崎川に架かっていた曽根崎橋と桜橋の中間から北東へ伸びた水路の分流で、そこから北へ伸びた水路は、国道2号線を横切って駅前第2ビルの東を北へ北へと進んでいくのだけれども、西向きにカーブを切ってます。そのカーブが、そっくりそのまま駅前第2ビルのいびつなかたちになっていて、この、駅前第2ビルのいびつなかたちこそ、その周囲を水路が流れていた痕跡なのだということが、このあたりに立つと、よくわかります。
ためしにgoogle mapで見ると、もっとよくわかります。

このあたり、かつて存在した曽根崎川は、別名、蜆川といって、もともとは清流だったのが、毛馬閘門が造られたせいで水が淀み、ジメジメした川となったことから蜆川、あるいは実際に蜆が採れたことから蜆川と呼ばれた川です。

明治42年の北の大火(天満焼け)のとき、蜆川は焼け跡から出た瓦礫の捨て場となって埋め立てられ、明治45年に上流部分が、大正13年に残りがすべて埋め立てられて姿を消したんですが、その蜆川のことをなぜ延々と書いているのかというと、北新地の歴史を語るうえで、この、蜆川を外すして語ることはできないからです。

1688年(元禄元年)、蜆川の南側に堂島新地ができ、1708年(宝永5年)、今度は蜆川の北側に、曽根崎新地が誕生します。
江戸は元禄の、絢爛な町人文化が花開くときです。
遊女を置く茶屋がたくさんできて、これが今の、新地の歓楽街の原型です。

さて、新地といえば、「曾根崎心中」と「心中天網島」のふたつの物語を生んだ土地ですが、そのうちのひとつ、「心中天網島」の舞台となった、茶屋の河庄の跡碑を、見つけました。

紙屋の旦那である治兵衛と新地のホステスさん小春の不倫話で片付けるには重層的すぎる話ですが、その舞台となった茶屋の河庄が、蜆川沿いにあり、その場所は、埋め立てられたゆえに現在は裏道としての香りを放っている、ということに、この場所に立って改めて気づき、都市の光と影を見る思いがしたのでした。



現に、忘れ去られたかのように、自販機と自販機のあいだに挟まれ、ゴミ箱と跡碑が同居しています。



茶屋「河庄」跡碑
大阪市北区曽根崎新地6

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1948年か昭和48年か、それともべつの48年なのか…?
薩摩っ子ラーメン。
というか、にんにくラーメンと言ったほうが、通りがいいですな。

東天満の店には、むかし、ときどき行ったもんですが、新地の店は、行ったことがないようなあるような…。

なんにしても長らく行っていないのですが、


薩摩っ子 北新地店



さて、この、店の看板の下に書いてある「創業48年 大阪空心町」です。


薩摩っ子 北新地店



空心町は、現在、東天満。
問題は、創業48年、ですわ。

今年が創業してから48年目、という意味ではきっとないと、思うのですね。それだと毎年書き換えねばならんからね。書き換えた形跡もないし。

ならば、48年に創業したとして、1948年なのか昭和48年なのか。。。。

まさか1848年とか明治48年(←ない!)とかの創業じゃないと思うので、1948年か昭和48年かだと思うのですが、どっちにもリアリティがあって、わかりません(笑)

昭和38年創業という説もあって、それだと1948年説が無理筋になってしまいます。

さて、どっちですかね?
誰か教えて下さい。



あ、肝心のラーメンは、黒豚+地鶏のトンコツ白湯系。麺はちぢれ系で腰あり。
長いこと食べてないので、記憶が定かでないのですが、たしか、そんなのです。

長いこと食べてないのは、他に、美味いラーメン屋がたくさんあるからで、むかしは、このお店を普段使いのカードに入れてたんですが、最近は、後発に抜かれっぱなしのような気が…(笑)




薩摩っ子 北新地店
大阪市北区曽根崎新地1-1-46
tel. 06-6348-1157
営業時間 11:00-翌4:00
無休

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