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おおきに!梅ピカ
梅田ピカデリー

梅田ピカデリー

梅田ピカデリー  
1月16日、30年以上にわたって僕らに娯楽を提供してくれた梅田ピカデリーが、ひっそりと閉館しました。
たくさんの人がブログやtwitterにアップしたので、ひっそりと、というのは語弊があるかもしれないけれども、大千秋楽だというのに、なんのイベントも催されなかったので、やっぱ、ひっそりという表現が妥当かと。

むかしは、チケット売り場に人だかりができてたもんだけれども、今は、そういう風景を見ることもなく…、というか、ここにかぎらず、今は予約していくことも多いから、どの映画館も、行列ができるということがなくなりましたな。

いろいろとスペック関係を調べてみると、
松竹の関西地区のメーン館として昭和55年3月に開業。
10階建てビルに4スクリーン、計1918席。
昭和57年公開の米映画「E.T.」で約36万7,000人を動員。
今も伝説として語り継がれるのは、平成6年3月、SMAPの主演映画の舞台挨拶やそうです。前日夕方から詰めかけた徹夜組が、早朝には5、600mの大行列に。4スクリーンすべてを開放したんだとか。

そんな梅田ピカデリーも、15億円前後あった興行収入が近年は10億円を割り込んでいたというので、3割以上減は、やっぱ、キツいですね。

ピカデリーだけじゃない。梅田はもう、老舗の映画館は全滅ですね。ほとんどすべてがシネコンにとって代わられたんじゃないだろうか?

北野劇場、梅田東映も平成14年に大型シネコンになりました。
OS、OS名画座、三番街シネマも平成19年に閉館して、隣のシネコンに吸収されました。

梅田ピカデリーで映画は数えきれないくらい見ているはずなんだけれども、じつは、特に思い出がない。なんの映画を見たのかも、まーったく思い出せません(笑)

たしか、高校生くらいだったときに、ソフィー・マルソーのデビュー作「ラ・ブーム」をここで見て、その足でレコード屋さんに行って、ハート形のレコードを買ったような記憶が…(笑)

今後、松竹系の映画は、JR大阪駅にできるシネコン「大阪ステーションシティシネマ」で上映されるらしいです。
もっとも、松竹だ東映だといった配給会社を気にして映画を見る時代では、ないですけどね。


ちなみに、最後の日の上映は、以下の通り。

「最後の忠臣蔵」
「ウルトラマンゼロ The Movie 超決戦ベリアル銀河帝国」
「ゲゲゲの女房」
「ハリーポッターと死の秘宝 part.1」

梅田ピカデリー




梅田ピカデリー
大阪市北区太融寺町8-17 梅田松竹会館
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太融寺にある淀君の墓は、なぜ婦女子さんに人気なのか?
太融寺

太融寺


今回は太融寺シリーズ第3弾、淀君の墓について。

過去エントリーはこちら。

第1回目 枯山水のくせに超ゆる〜いの太融寺の庭
第2回目 いつも誰かがお百度を踏んでる太融寺の人気者、一願不動明王


豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母である淀君の経歴については、今さらなので、ここでは省略します。

物語は、秀吉の死後からはじまります。
1599年(慶長4年)、淀君は秀頼とともに大坂城西の丸に入り、豊臣の再興を画策するんですが、1615年(元和元年)、大阪夏の陣で大坂城が落城したとき、秀頼とともに自刃しました。息子とともに立ち上がり、息子とともに死ぬなんざ、まさに、母は強し!とはこのことですな。

さて、その淀君の墓が、太融寺の境内、北西の角に、ひっそりとあります。
なぜ、彼女の墓が、太融寺にあるのか。

大坂城落城の果てに自刃して果てた淀君の遺骨は、淀君が厚く信仰していた大坂城外鴫野弁天島(現在のOBPあたりですわ)の弁天社の隣に、ひとつの祠をつくって埋められたのでした。これが、淀姫神社です。

その後、時代は下って1877年(明治10年)、現在の大阪城公園に城東練兵場が造成されることになり、この、淀姫神社は、生国魂神社に移祀されることになったのでした。
その際、豊臣家に縁の深い太融寺に遺骨を埋め、「九輪の塔」を建てたということです。現在は、6輪になっているのは、第2次大戦の大阪大空襲のときに損傷し、下段の3輪がなくなったんだとか。

太融寺 淀君の墓


墓の横には、碑文があります。
太融寺 淀君の墓



で、淀君はベッピンさんでもあったし、豊臣秀吉の寵愛も厚かったですから、戦前は、キタの花街のおねえちゃんたちが彼女にあやかろうと参拝する姿が後を絶たなかったといいます。

特に、「巳の日」の縁日のときには、参拝するおねえちゃんが大挙して押しかけたそうです。というのも、この淀君の墓の横に、彼女の墓所を守るかのようにして、雌神を祀る白龍大社があるから。この雌神は、白龍、つまり巳です。今では太融寺の境内の外になってしまいましたが、雄神の龍王大神を祀った社があり、そことは対になっていて、縁結びの神さまでもあります。

こちらが白龍大社。
太融寺 白神大社


龍王大神については、すでにエントリー済みです。

「龍王大神のイチョウに見るミイサン伝説」


そういうこともあって、巳の日の縁日のときは、婦女子さんがこちらに参る姿が見れますな。







太融寺
大阪市北区太融寺町3-7
tel. 06-6311-5480
拝観無料
HP http://www.evam.ne.jp/taiyuji/

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いつも誰かがお百度を踏んでる太融寺の人気者、一願不動明王
太融寺

太融寺


太融寺はでっかいので、何回かにわけてエントリーします。
過去エントリーは、こちら。

第1回目 枯山水のくせに超ゆる〜い太融寺の庭


今回は、人気者のお不動さんについて。

太融寺


かつては広大な境内を誇った太融寺も現在はこじんまりしたスペースに所狭しとお堂がたくさん固まっていて、そのなかに、朱塗りの宝塔があります。境内の東北隅の奥まった、本当にごちゃごちゃと堂宇が重なるようにして固まっているところの一角です。

その堂宇群のなかの宝塔の第一層、つまり1Fに、不動堂があり、ここに、一願不動明王が安置されてます。

太融寺は空海建立の真言宗のお寺さんなので、真言宗の根本尊である大日如来の化身であるところの不動明王を信仰の対象にするケースが、多々あります。日本では、この傾向が特に強いですな。

さて、太融寺は飲屋街にあることもあって、わりとがちゃがちゃとしたお寺さんですが、一願不動明王が安置されている場所には陽の光が直接届かないためにほの暗く、後ろの岩屋の上からは糸のような滝が水を落としており、一種独特の神秘的な雰囲気を醸し出してます。

太融寺にはいろいろと人気者がいらっしゃるのですが、この一願不動明王は、そのなかでもトップクラスの人気を誇る仏さんです。
元来は、あらゆる災難を信心する人に変わって引き受けて、悪病や厄鬼を取り押さえ、宿願を成就させてくれる仏さんですが、一願とあるとおり、願いごとをひとつ叶えてくれる仏さんとして、大変人気があります。

お香が絶えず、このお不動さんの周りをグルグルとまわって、お百度踏みの代わりとしている人も、たくさんいらっしゃいます。
今回も、写真を撮ろうとして訪れたのだけれども、お百度を踏む人が入れ替わり立ち替わりやってこられて、しびれを切らせてシャッターを押しましたから。

太融寺 一願不動明王


さて、このお不動さん、じつは二代目でして、初代は、第二次大戦の大阪大空襲で焼け落ちた瓦礫のなかに横たわっていたものを掘り出したあと、奥の院に安置し、現在は秘仏となってます。
現在の二代目さんは、戦後に再刻された石像のお不動さんです。


ところで、お百度は人に見られないように行なうと効果があるといいますが、ここだと、誰にも見られないわけにはいきませんな(笑)




太融寺
大阪市北区太融寺町3-7
tel. 06-6311-5480
拝観無料
HP http://www.evam.ne.jp/taiyuji/

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枯山水のくせに超ゆる〜い太融寺の庭
太融寺

太融寺



久しぶりに太融寺に行ってきました。

太融寺については、このブログではまだエントリーしたことがないので、これからおいおいと書いていきたいのですが、今回は、庭について。

そのまえに、一応、縁起だけを簡単に。

南は四天王寺、北は太融寺。
そんなふうに称されるほど、かつての太融寺はでっかい寺院で、梅田、扇町、老松町、堂山がそのまんま境内に入っていたらしいですな。
扇町公園がそっくりそのまま太融寺の庭で、お堂があったところは堂山町で、松が生えていたところが若松町…、町名がそのまま太融寺さんの境内に由来しているのを見ても、どんだけでっかかったのかが想像できます。

821年(弘仁12年)、弘法大師がこの地を訪れたとき、樹々のあいだから香りを放つ霊木を見つけ、これを伐ってお地蔵さんと毘沙門天の2体を刻み、弘法大師のスポンサーでもあった嵯峨天皇の勅願寺としたのがはじまりやそうです。

僕、てっきり、太融寺の寺名の由来になってる源融(光源氏のモデルですね)の壮健だとばっかり思っていたのですが、源融のお父さんである嵯峨天皇のために空海が建て、源融がこのお寺の勢力を拡大したらしいですな。

なので、宗派を考えたことがなかったのだけれども、空海創建なので、もちろん、真言宗。

空海創建と知らなかったからもちろん真言宗だと思ったこともなく、それなのになーんで禅宗の枯山水の庭なのですかいな、と、ずーっと思っていたので、今回久しぶりに行ってみて、目からウロコが落ちたかんじでした。

禅宗が入ってくる以前のお寺さん、たとえば京都の宇治平等院などは、池泉回遊式庭園がほとんどで、実際に水を張った池があり、その周囲を草花が咲き誇り、極楽浄土を表現した庭が多いのですが、禅宗になると、そこが洗練されるというか、抽象化されて、枯山水の石庭となります。
白砂を海や池と見立て、岩を島と見立てるわけです。洗練や抽象であると同時に、ストイシズムを目指したのが、禅宗であり、禅宗の表現である枯山水の庭ですわ。

そういう庭が、じつは太融寺にあります。

太融寺

太融寺

太融寺




本堂と南門を繋ぐ参道の東側に、あります。
ひと際高い岩が鶴島で、それと対になるかたちの平べったい岩が亀島のはずなのですが、岩がありすぎて、どれが亀島かちょっとわかりませんでした。でも、数えてみると、九山八海の庭ですな。

珍しいのは、置き石がたくさん配置されていて、庭の中心部まで入ることができることです。
庭というのは、眺めるべきポジションが決められているのが通常なのですが、これだと、どっから眺めたらいいのかわからない、というよりも、どっからでも眺めてください、とでも言いたげな、ちょっとゆる〜い庭です。

そのゆるさは、垣根や塀がないことにも表れていて、ここの庭は、どっからが庭でどっからが庭の外なのかが、さっぱりわかりません。そういう境界が、ない。
これまた珍しいことで、通常、庭というのは、ある空間を区切って、外界と隔離して初めて成り立つ仕組みになってます。ある枠組みの中でひとつの世界観を表現するのが日本のお寺さんの庭で、枠組みがなければ成り立たない種類のもののはずなのだけれども、太融寺の庭には、その、枠組みがないです。

こんな庭、見たことありません。

あくまで推測ですが、禅宗が空海や最澄によって日本に輸入され、それに沿った庭が完成されていく過程で、まだ試行錯誤していた段階に、太融寺の庭はできたのかな、と、思わないでもないです。

おかげで、ここの庭の周辺では、読書をしたり、ひなたぼっこをしたりしている人が、想像以上にたくさんいます。
龍安寺の石庭を思い浮かべてみるとわかりますが、通常、枯山水の庭を眺めるという行為は、庭と対峙することで自分と向き合うといった、ストイックな行為を促します。でも、ここには、そういうストイシズムはなく、ゆる〜い雰囲気を醸し出してます。

その意味では、なかなか珍しい庭だといえますな。
でも、好きです。





太融寺
大阪市北区太融寺町3-7
tel. 06-6311-5480
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