大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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明治22年、大阪市誕生。でもわりとドタバタしてたみたい
市制・町村制により大阪市が成立したのは、明治22年4月1日。
でも、市制特例で、大阪市の場合は、府市一体として誕生します。なので、府知事が市長を兼務してました。そのせいで、大阪市役所は、府庁内に置かれていたのですね。…なんか、今の橋下知事が目指しているのと似たようなかんじですな。。。

つまるところ、大阪府が大阪市政を代行していたわけです。西区の江之子島の府庁内に仮住まいです
当時、なんでか知らないのだけれども、この、概念上の市役所は「政府」と呼ばれていたらしいです。江之子島政府。

府にしろ市にしろ、なんだった江之子島みたいな中心から外れた場所に行政の中心地が置かれていたのかというと、木津川を挟んだ対岸に、川口があったからです。
川口は、幕末に日本が開国した際に、大阪の港として最初に指定されたところで、外国人居留地もつくられたことから、ここが、大阪におけるける文明開化の地ということになり、行政機能も、ここに置かれることになった、と。
もっとも、川口の港は上流からの土砂によって船がすぐに座礁するという欠陥を抱えていたので、外国船はすぐに大阪から神戸に拠点を移してますがww
一応、名残としては、川口教会がありますな。阪神大震災のときに損傷し、復旧して注目を浴びたところです。

さて、そんなふうにしてはじまった大阪市政だけれども、一人前の自治体となったのは、明治31年で、それを機に、翌年、庁舎も独立します。庁舎独立は明治32年。府庁舎の隣に、木造2階建ての建物を建てて移転します。

その後、市庁舎は堂島浜に新庁舎を建設してそちらに移転するんですが、これが明治45年のこと。でも、古い写真を見てみると、どうやらここは仮住まいだったよう。木造やしね。

大阪市堂島庁舎跡


事実、中之島の現在の庁舎が大正10年に完成して、そっちに移ってますから、堂島浜のこの場所は、10年間しかいなかったことになります。

ちょっとまとめてみると、

1889年(明治22年) 市制・町村制と市制特例により、府政一体としての大阪市が誕生する。初代市庁舎、江之子島の府庁舎内に設置される。
1898年(明治31年) 大阪市として府から独立。
1899年(明治32年) 府庁舎の隣に自前の市庁舎(初代)を建設、移転。
1912年(明治45年) 堂島浜に2代目市庁舎を建設、移転。
1921年(大正10年) 中之島に現在の第3代目市庁舎を建設、移転。

現在でも偉容を誇る3代目庁舎は大正10年からこっち、長きにわたってつかっているわけですが、この地にやってくるまでは、10年単位で移転していて、流浪の旅を続けていたようです。
市制特例のせいで、スタートからしばらくは、ドタバタしていたんでしょうな。

ということで、堂島浜、現在のNTTテレパークの敷地に、第2代目庁舎の堂島庁舎跡碑が建ってます。
わずか10年ではあったけれども、ここに市行政の中心が置かれていた証です。ちなみに時代は名市長の誉れ高い関市長が大阪市政にかかわる直前のことです。

大阪市堂島庁舎跡

大阪市堂島庁舎跡




大阪市役所堂島庁舎 跡
大阪市北区堂島3-1-59 NTTテレパーク敷地内
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世界初の先物取り引き所だった堂島米会所
堂島米相場(堂島米会所)

こないだ、蔵屋敷のことを書いたときに、米切符のことを書きました。

そんときのエントリーは、こちら。

「佐賀は肥前藩蔵屋敷跡も今は…」

こいつのおかげで相場が開かれるようになり、堂島に米相場が立つわけです。
それまでにも闇の相場みたいなのはあったみたいだけれども、公式にというか、制度的に統一されたのが、江戸時代の1730年(享保15年)。徳川吉宗が将軍のときに公認されてます。名称は、堂島米会所

当時は、余った年貢米を金に換えようと各藩が大坂に米を運んでおり、それこそ蔵屋敷もそのために建てられたみたいなもんですが、蔵屋敷で入札した仲買人が手に入れるのは「米切符」という、いわば証券だから、こいつが米会所で売買されるわけです。

ただ、それとはべつに、「建物米」という銘柄指定の先物取り引きも行われていたようですな。って、…よう考えたら、これ、世界最初の先物取り引き所ですやん。これは、帳合米市場といいます。

堂島には、1,000人からの先物トレーダーがいたらしく、しかも毎日決済のデイトレやったので、一夜にして大金持ちが出現したり、逆に、身ぐるみはがされたりと、そういう光景があったことは想像に難くありませんな。

だいたい、日本は数学が発達しまくってましたからな。
現在のクイズ番組みたいに、和算は、娯楽の対象にすらなっていて、それこそ和算塾に問題を持ち込む道場破りみたいなもんまでいたというし、そんときの問題なんて僕が見てもからっきしわからんし、いわゆるマセマティクと比べても全然引けをとってなかったのが、和算やったといいます。
きっと、さまざまな数式が編み出されて、ヘッジファンドのように利用されてたんやと思います。

さて、米会所です。
帳合米市場には、町人のような一般人も投資家として参加していたのだけれども、一方で、米の売り手である藩は参加しませんでした。藩は米切手を発行することで実際の米の入荷を待たずにゼニ(銀建てですわ)を入手することができたんで、相場に参加する必要はないです。先物取り引きに生産者農家が参加せんのとおなじ理屈ですな。

年間の取引日は250日。相場は春、夏、秋と3回開かれ、満期も3回設定されてます。今なら乗り換え(ロールオーバー)もできるけれども、当時はすべて清算しなければならなかったらしいです。信用リスクを考慮したゆえの制度ですね。

まず、帳合米取引が8:00に開きます。10:00の時点の帳合米の値を参考に正米の寄付値段が決定し、取引がはじまります。正米取引は12:00に終了します。帳合米取引は継続され、14:00終了。
終了時刻がずれているのは、正米では処理しきれなかった情報を帳合米で調整していたため。

おもしろいのは、帳合米取引が終了する14:00に、3寸ほどの火縄に火をつけ、燃え尽きるあいだに取引が行われなければその日の取引はすべてなかったことにする、という、「立用(ruiyo)」という制度があったことです。天災などなんらかの理由で市場が混乱した場合、取引はなかなか成立しないですから、そういう特殊な状況下のプライスをご破算にすることで公平性を保持し、マーケットの決済システムとヘッジ機能を担保していたとのことです。これ、現代でも機能させてもいいんとちゃうかなと思いますわ。スパイラルが半減するような気がします。

ほいで、こっからもまだすごいです。
堂島の米会所は日本最大の米市場だったので、ここでの相場の情報は、全国に速報されていたのですね。
和歌山まで3分、京都で4分、岡山は15分、広島にいたっては40分で伝わったといいます。
からくりは、旗振り。中継地点は約1kmごとに設置されていて、電話もネットもない時代なのだから、これはもう、リアルタイムといっていいでしょうな。とんでもないシステム。
江戸までは8時間かかったらしいんですが、これは箱根の山越えに飛脚を使っていたから。
この旗振りを望遠鏡で覗いてノミ行為をする人も出現したために、旗振りも暗号化されていたらしいです。インサイダー取引を排除する動きは、こんときからあったということです。


とまあ、詳しく調べれば調べるほどおもろい米相場なんですが、堂島浜、中之島ガーデンブリッジの北詰んところに、跡碑があります。
資本主義の総本山みたいなところやったくせに、跡碑にある彫刻がね、かわいらしいんですわ。
これは、なにを隠そうとする意図があったんや?(笑)
少なくとも、こんな牧歌的なもんではなかったことだけは、まちがいありまへん(笑)

堂島米相場(堂島米会所)






堂島米市場(堂島米会所)跡碑
大阪市北区堂島浜1 中之島ガーデンブリッジ北詰
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ショック! 新ダイビルの屋上庭園がすでに閉鎖されてました…。
堂島浜にある羊を飼ってるビル(笑)の新ダイビルについて、ちょっとまえに書きました。

そんときのエントリーは、こちら。

羊を飼うビル


で、まえのエントリーでも書いたのだけれども、この新ダイビルは建て替えが決まっていて、新・新ダイビルの工事は2011年に着工、2014年に完成予定になってます。

壁面の角4方に羊のオブジェが埋め込まれているのは有名なのですが、ここは屋上が素晴らしくてですね、ときどき行ったもんです。

屋上なのに芝生と植え込みがふんだんに用いられた緑化屋上なのですよ。今でこそ温暖化対策でそういうビルも増えてきてますが、この新ダイビルができたのは1958年ですからね。

でも、そんな新ダイビルもまもなく閉館。名残を惜しんでおこうと屋上へ向かったのですが、な、な、なんと、10/16で、屋上公園が閉鎖されていたのでした…。

ざ、残念!名残たかった〜。

というわけで、未練がましく、ガラス扉越しに、屋上公園をしばし眺め、今生の別を告げてきたのでした。

新ダイビル

新ダイビル






新・新ダイビルには、屋上庭園はできるのでしょうか?






新ダイビル
大阪市北区堂島浜1-2-6

大阪市の北区をグルグル巡るためのmap





羊を飼うビル
もうとっくに発表されていることですが、堂島浜にある新ダイビルは建て替えが計画されていて、新・新ダイビルの工事が2011年に着工、2014年に完成予定になってます。

今の新ダイビルはデザイン関係の本が充実している本屋さんがあったりして、むかし、よく行ったもんです。現在のテナントがどうなるのかは知らないのですが、ちと寂しいですな。

というのも、このビルは、一見、なんということはないビルなのだけれども、随所に遊び心が盛り込まれていて、よくよく考えたら、こんなビルは滅多にないんじゃないか?というシロモノ。

ちなみに現在のビルは、1958年竣工。1963年に改装してます。

一番有名なのは、羊がいることですよね(笑)

ほら、ビルの角、中段のあたりに羊がいます。
そう、羊を飼っている、世にも珍しいビルなのですよ(笑)

新ダイビル


ズームアップしてみます。
新ダイビル


もっとズームしてみると、ほら☆
新ダイビル


ちなみに、四つの角すべてに、羊さんがいらっしゃいます。
新ダイビル



それにしても、なぜに羊なのでしょうか?

羊といえば、多産で繁殖することから、繁栄のイメージがありますから、そういうことなのかと思うんですけどね。

新ダイビルは、昭和の名建築家、村野藤吾が設計を手がけたビルですが、彼はビルに彫刻を盛り込むのが好きだったので、たしか、誰からも愛されるビルということで、一般的に人気のある羊の彫刻を盛り込んだのだということを、どこかで読んだことがあります。

モダニズムは装飾を排する性質を持っているように思いますが、村野藤吾は、そうした装飾が建物への愛着を生むことを、知っていたんでしょうね。



さて、新ダイビルには、この羊以外にもまだまだサプライズがあります。
それはまた、おいおい。





新ダイビル
大阪市北区堂島浜1-2-6

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