こないだ、蔵屋敷のことを書いたときに、
米切符のことを書きました。
そんときのエントリーは、こちら。
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「佐賀は肥前藩蔵屋敷跡も今は…」こいつのおかげで相場が開かれるようになり、堂島に米相場が立つわけです。
それまでにも闇の相場みたいなのはあったみたいだけれども、公式にというか、制度的に統一されたのが、江戸時代の1730年(享保15年)。徳川吉宗が将軍のときに公認されてます。名称は、
堂島米会所。
当時は、余った年貢米を金に換えようと各藩が大坂に米を運んでおり、それこそ蔵屋敷もそのために建てられたみたいなもんですが、蔵屋敷で入札した仲買人が手に入れるのは「米切符」という、いわば証券だから、こいつが米会所で売買されるわけです。
ただ、それとはべつに、「建物米」という銘柄指定の先物取り引きも行われていたようですな。って、…よう考えたら、これ、世界最初の先物取り引き所ですやん。これは、帳合米市場といいます。
堂島には、1,000人からの先物トレーダーがいたらしく、しかも毎日決済のデイトレやったので、一夜にして大金持ちが出現したり、逆に、身ぐるみはがされたりと、そういう光景があったことは想像に難くありませんな。
だいたい、日本は数学が発達しまくってましたからな。
現在のクイズ番組みたいに、和算は、娯楽の対象にすらなっていて、それこそ和算塾に問題を持ち込む道場破りみたいなもんまでいたというし、そんときの問題なんて僕が見てもからっきしわからんし、いわゆるマセマティクと比べても全然引けをとってなかったのが、和算やったといいます。
きっと、さまざまな数式が編み出されて、ヘッジファンドのように利用されてたんやと思います。
さて、米会所です。
帳合米市場には、町人のような一般人も投資家として参加していたのだけれども、一方で、米の売り手である藩は参加しませんでした。藩は米切手を発行することで実際の米の入荷を待たずにゼニ(銀建てですわ)を入手することができたんで、相場に参加する必要はないです。先物取り引きに生産者農家が参加せんのとおなじ理屈ですな。
年間の取引日は250日。相場は春、夏、秋と3回開かれ、満期も3回設定されてます。今なら乗り換え(ロールオーバー)もできるけれども、当時はすべて清算しなければならなかったらしいです。信用リスクを考慮したゆえの制度ですね。
まず、帳合米取引が8:00に開きます。10:00の時点の帳合米の値を参考に正米の寄付値段が決定し、取引がはじまります。正米取引は12:00に終了します。帳合米取引は継続され、14:00終了。
終了時刻がずれているのは、正米では処理しきれなかった情報を帳合米で調整していたため。
おもしろいのは、帳合米取引が終了する14:00に、3寸ほどの火縄に火をつけ、燃え尽きるあいだに取引が行われなければその日の取引はすべてなかったことにする、という、「立用(ruiyo)」という制度があったことです。天災などなんらかの理由で市場が混乱した場合、取引はなかなか成立しないですから、そういう特殊な状況下のプライスをご破算にすることで公平性を保持し、マーケットの決済システムとヘッジ機能を担保していたとのことです。これ、現代でも機能させてもいいんとちゃうかなと思いますわ。スパイラルが半減するような気がします。
ほいで、こっからもまだすごいです。
堂島の米会所は日本最大の米市場だったので、ここでの相場の情報は、全国に速報されていたのですね。
和歌山まで3分、京都で4分、岡山は15分、広島にいたっては40分で伝わったといいます。
からくりは、旗振り。中継地点は約1kmごとに設置されていて、電話もネットもない時代なのだから、これはもう、リアルタイムといっていいでしょうな。とんでもないシステム。
江戸までは8時間かかったらしいんですが、これは箱根の山越えに飛脚を使っていたから。
この旗振りを望遠鏡で覗いてノミ行為をする人も出現したために、旗振りも暗号化されていたらしいです。インサイダー取引を排除する動きは、こんときからあったということです。
とまあ、詳しく調べれば調べるほどおもろい米相場なんですが、堂島浜、中之島ガーデンブリッジの北詰んところに、跡碑があります。
資本主義の総本山みたいなところやったくせに、跡碑にある彫刻がね、かわいらしいんですわ。
これは、なにを隠そうとする意図があったんや?(笑)
少なくとも、こんな牧歌的なもんではなかったことだけは、まちがいありまへん(笑)
堂島米市場(堂島米会所)跡碑大阪市北区堂島浜1 中之島ガーデンブリッジ北詰
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