赤穂浪士の話というのはあんまり興味がないです。
したがって、ストーリーも、うろ覚え程度しか知らない(笑)
こんな話でしたっけ?
江戸太平の世、元禄時代、播州赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家旗本・吉良上野介に対し、江戸城殿中において刃傷に及ぶ。
浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり、赤穂藩は改易となった。
遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名が12月15日未明に吉良邸に討ち入り、主人の吉良上野介をはじめとする吉良家家臣16名を斬る。
で、討ち入りに参加した浪士たちは、幕府の命により切腹。なお、ひとりだけ切腹しなかった。
主君の名誉を守るために、家臣たちが切腹も辞さずの覚悟で立ち上がった、という話でよかったんでしたっけ?
で、そんときの浪士47人の墓は、浅野内匠頭のそれとおなじ、東京の泉岳寺にあります。
で、著名人の常として、彼らの墓は、探せば全国各地にありますな。関係者にまで範囲を広げると、もう、日本中いたるところに(笑)
さて、兎我野町界隈でいつも気になっていたところがあって、まあ、忙しさにかまけてそのまま見過ごしていたところがあります。
これ。
ここは
円通院の墓地なのだけれども、お地蔵さんとこのお墓だけ、墓地の敷居の外に安置されています。
きっと、それなりに名のある人のお墓で、誰もが気軽に詣ることができるように、との配慮だとは思うんですが、はて、誰でしょうかね?
と思って、先日、チャリを停めて、まじまじと見てみると、
大石内蔵助良雄実父権内良昭大石瀬左衛門清実父八郎兵衛とありました。
これで、ああ、赤穂浪士の人ね、と思った次第。
大石内蔵助のお父さんの、権内良昭って人の墓ですね。
もいっこは、大石瀬左衛門清のお父さんの、八郎兵衛って人の墓。
いろいろ調べてみると、
大石家の遠祖は平将門を討ち取った藤原秀郷であると伝えられていて、内蔵助の曽祖父良勝の代に、笠間藩
浅野長重に仕え、大坂の陣の功で家老職1500石取の身分となったとのことです。
祖父の良欽の代に、笠間から赤穂に転封された浅野長直、長友、長矩の三代にわたって家老職を勤めます。
で、件の権内良昭さんはこのあとを継ぐはずだったのだけれども、家督を相続する直前の34歳のときに、大阪で病死しているのですね。
おもしろいのは、
なので、大石内蔵助良雄が、そのまま家督を継ぐんですが、父・権内良昭の息子としてではなく、そんときの家督だった祖父・良欽の養子となって、大石家を相続している点です。
やっぱ、直子でないと、それ以外の叔父やらなにやらが黙っていないといったような、相続の問題があったんでしょうな。
と、妄想してみるんですが、どうでしょうか?
ほいで、権内良昭の墓の隣にあるのは、大石瀬左衛門清のお父さんの、八郎兵衛って人の墓。
内蔵助と瀬左衛門は親戚関係にあって、映画なんかでは、赤穂浪士たちをサポートする、無人・三平親子という役で登場する人のモデルとなった人なんやそうです。
円通院大石内蔵助良雄実父権内良昭の墓大石瀬左衛門清実父八郎兵衛の墓大阪市北区兎我野町8
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