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石清水八幡宮から神体を勧進して祀った長柄八幡宮
まず告知から。
えーっと、twitterを実験的にはじめました。

http://twitter.com/luis0117
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アカウントはtwitter日本上陸時に取得したんだけど、ずーっと放置してました。
最近、猫も杓子もトゥイッター!とうるさいので、じゃあ、いっちょやってみようじゃないか、と。今後のweb広報戦略にどんだけ役立つのかの実験です。仕事に生かせるのかどうか、お客さんにおススメできるのかどうか、検証していきます。
一応、このブログのために取材したことや調べたことなんかを、告知的にポストしていく予定。ブログの予告編ですね。フォロー、夜露死苦☆



さてさて、では、以下、本編。

昨日のエントリーで、南長柄八幡宮を紹介しました。

そんときのエントリーは、こちら。

かつては川に向かって拝んでいた(はずの)南長柄八幡宮


そっからさらに北に向かって歩いていくと、今度は、長柄八幡宮があります。
天神橋は8丁目まであるのですが、そこからさらに北側、現在の淀川の堤防までは、長柄です。
長柄は、「な」が魚で、「がら」は形を意味しますから、ながら=魚のかたちをした島、というほどの意味ですかね。後年のどこかで字が変わって、「長柄」になったんでしょう。
古地図の難波八十八島に、このあたりが中洲であったことも記載されているんで、わりと古くから集落があったとは思うんですが、いかんせん、鎌倉以前のことはわかってません。
ただ、現在は長柄東、長柄中、長柄西と東西に区画されてますが、かつては、北長柄村、南長柄村と、南北に区画されていて、それに沿って、長柄八幡宮と南長柄八幡宮の2社が南北に配されています。

さて、長柄八幡宮。
城北公園通に面していて、ここはかなり交通量の多いとこですから、まあ、騒々しい街なかの神社、というかんじ。道路に面していない3面は小さな鎮守の森に囲まれているので、神社の境内に入ると、エアポケットみたいな静かな空間がひろがってます。

長柄八幡宮


ただ、年2回、7月の夏祭り(第3日曜)と秋祭り(10/17-18)は、境内に地車囃子の音が鳴り響いて、賑わいを見せるんだそうです。これ、見たことがないんで、来年、チャンスがあれば覗いてみたいもんです。
このお囃子は、、大阪城の完成を祝って奉納した地車囃子が豊臣秀吉に大変喜ばれたらしく、以来、ずーっと続いている地車囃子やそうです。摂津地車囃子、と呼ぶんだとか。

縁起によると、
1296年、鎌倉時代の永仁4年、今、京都と大阪の境にある山城国の男山八幡宮(石清水八幡宮)から神体を勧進して祀ったが起源で、以来、この付近の氏神さんとして尊崇されてます。
1610年(慶長15年)に、本殿・幣殿・拝殿を改築されてます。

それ以来、焼けてないみたいです。
このあたりは、第二次大戦の大阪大空襲で焼けてるところが多いんですが、ここは免れたみたいです。

南長柄八幡宮同様、かつて、中津川と大川(旧淀川)の分岐点にあって、もちろん交通の要衝でもあり、特に、海、川をこえて韓半島の文化がたくさん流入していた場所でもあるらしいのですね。なので、韓半島から居住してきた人たちの子孫のなかで財を成した人も多く、長柄長者という名まで誕生したという伝承もあります。

今、さすがにその面影はないですな…。


長柄八幡宮


「神恩奉謝」「神徳無窮」と、鳥居に刻まれています。
神徳無窮とは、神さんの徳が果てしなく続くこと、くらいの意味ですね。




長柄八幡宮
大阪市北区長柄中3-3-1

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かつては川に向かって拝んでいた(はずの)南長柄八幡宮
南長柄八幡宮


長柄は、近世から明治初期にかけて、北長柄村と南長柄村とに、わかれていたそうです。今の区画だと東西にわかれてますから、かつてと今とでは、ずいぶんと勢力図が違ったのかも知れませんな。

で、北長柄村の氏神が長柄八幡宮で、南長柄村の氏神が、今回紹介する南長柄八幡宮。北の長柄八幡宮と比べると、全然小さくて、町のなかに溶け込んだ下町の氏神さんといったかんじです。

南長柄八幡宮の社地は、明治末までは、現在の鶴満寺公園にあったと伝えられているのだけれども、今の鶴満寺公園の東側は団地の道路で、以前はここに大川(旧淀川)の土堤があったはずなので、本来の南長柄八幡宮は、長柄砂洲の北部東岸という水上交通の要所にあって、川に向かって拝む神社だったのでは、と、想像します。

そもそも八幡さんという神さまは、農耕神であると同時に水の神さまでもあるので、川岸に多く見られるし、その伝からも、大川(旧淀川)と密接にかかわっている神社と考えて、差し支えないと思います。

もっとも、このあたりの神社は、その縁起がよくわかってませんが…。

長柄自体が、歴史に登場してくるのが、中世末期、織田信長と大坂石山本願寺とのあいだの10年戦争のあたりで、本願寺方の早鐘撞き場が設けられ、ここが一向一揆勢の拠点だった、ということがわかっているくらいで。
一方で、信長が本願寺を攻めるための兵糧を備蓄するために建てたという伝承の残る土蔵もあって、なにがなにやら、という感もあります。
まあ、10年戦争という長い戦争だったので、南長柄八幡宮が信長方に占拠されたり本願寺方に占拠されたりと、天秤のように右に傾いたり左に傾いたりしたことは、あったかもしれませんね。

わかっていることは、それくらい。

あとは、近世になってからの由緒が手がかりになるのみです。

ご祭神は、応神天皇。八幡宮は、たいてい、応神天皇がご祭神です。
1098年(承徳2年)の難波八十八島の古地図には、広大な境内に鎮守された神社として、記載されているようです。
江戸時代、境内の神木の松に、鶴が巣をかけて子を育てたことで、その見物人が増え、当時の流行歌などにも詠みこまれることがあった。この頃、鶴の八幡宮とも呼ばれていたらしいです。
1908年(明治41年)、豊崎宮と合祀。
1948年(昭和23年)、現在の地に還御鎮座。
1965年(昭和40年)、地域の氏神さんとして、本殿と社務所を造営。

あ、合祀されて廃社になった神社が完全復活を遂げるというのは、ちょっと聞いたことがないくらい、珍しいかもしれません。
ここらも地域愛というか、そういうのが強いので、執着があったんでしょうね。

夏、7月の第2日曜に、夏季大祭が催され、地車囃子で賑わうらしいです。長柄囃子というんですが、全然知らんかったです。来年、行ってみるかな。






南長柄八幡宮
大阪市北区長柄中1-4-25

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