大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

大阪市の北区をグルグル巡るブログ
大阪市の北区をグルグル巡るブログ
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


毛馬閘門から、淀川の治水史を俯瞰する
メソポタミアやアレクサンドリアを引き合いに出すまでもなく、川のあるところに文明は生まれます。
その伝でいくと、大阪は、淀川があったからこそ拓けた、というのは、言い切れると思いますわ。
もう長いこと、大阪と淀川は、濃密な関係を続けてきました。

平安時代のころは、淀川は、瀬戸内海や西国と京の都を結ぶ交通の大動脈で、流域のまちであった大阪は、それこそ水の都と呼ばれて久しいわけです。舟運が発達し、天満や中之島は、物流の集積地として、発達を加速させていきます。

ただ、淀川というのは案外と暴れ川で、大阪は同時に、度重なる洪水に悩まされてもきました。自然というのは、人間にとって、神にも悪魔にもなるもんですが、淀川というのは、まさに、そういう両面を持っている川でもあったわけです。

記録によると、601年(推古9年)から1925年(大正14年)までの1300年のあいだに、じつに134回も洪水に見舞われています。10年に1回の計算。この間、淀川の治水は、ずーっと、この地の課題でもありました。

淀川の治水史に輝かしい足跡を残した人物といえば、まず、江戸中期の豪商、河村瑞軒が挙げられます。
この頃はまだ、現在の大川が淀川だったわけですが、その淀川の下流の水害対策として、安治川を開削します。直線的な水路をつくって、増水したときでも一気に大阪湾に水が流れるように、という工事です。

他、河内国の庄屋であった中甚兵衛は、淀川から大和川を切り離すという大工事を成し遂げてます。

というように、絶え間ない治水によってインフラを整備することで、大阪は天下の台所として繁栄していきます。
特筆すべきなのは、当時の幕府、つまり行政がそうした工事を行っているのではなくて、民間の人たちが自前のカネを使って、あるいは寄付を募って、行っているということです。大阪っちゅーところは、むかしから、お上をあてにせん精神がありますな。


さて、最大の工事は、やっぱ、明治に入ってから行われた、新淀川の開削でしょう。グネグネとうねりながら市中に流れ込んでくる淀川の流線を、根本的に変えてしまおうという、とんでもない大工事です。

直接のきっかけとなったのは、1885年(明治18年)の大洪水です。
北摂から中河内郡、大阪市街の約1万5142ヘクタール、約7万1000戸が浸水します。当時の大阪府全世帯数のうちの約20%が泥の海に沈んだというから、とんでもない大災害です。家屋流失約1600戸、損壊1万5000戸。上町台地の高台以外はほとんどが罹災し、被災人口約27万人。天満橋や天神橋など、橋の流失が31。もうね、空前絶後とはこのことです。


ほいで、この惨状を見て、淀川をなんとかせなあかん!と、立ち上がったのが、淀川万歳!で有名な大橋房太郎さんです。彼は、治水に生涯を捧げようと決意したわけです。
淀川改修運動の旗手となり、大阪府会議員となり、淀川改修の必要性を国に訴え、「淀川屋さん」とまで呼ばれるようになります。
あいだに日清戦争を挟んだせいで計画はハンコが押されたり頓挫したりと紆余曲折あったんですが、1896年(明治29年)、ついには、貴族院で河川法に伴う淀川改修法案が成立し、傍聴席にいた大橋房太郎さんが「淀川万歳!」と叫んだのは、有名な話です。


んで、いよいよ日本初の近代的本格的な治水工事がスタートするんですが、これは、それまで頼っていた外国人技術者ではなく、日本人によって進められた初の治水工事でもあります。
フランスに留学して近代土木建築技術を学んだ、沖野忠雄が設計を担当します。
沖野博士、もう英雄です。胸像が建ってますから。

毛馬閘門

毛馬閘門


この工事の肝は、4点あります。
琵琶湖周辺の洪水を防ぐ瀬田川洗堰の設置、
宇治川の付け替え、
新淀川の開削、
毛馬洗堰と閘門の設置、
です。
北ヤードの再開発どころではない、超ビッグプロジェクト☆

旧淀川、中津川、神崎川にわかれて蛇行しまくっていた淀川の下流部を改修して、守口から大阪湾まで16kmを一直線に、川幅500mの大放水路、つまり新淀川をつくっちまおうというプロジェクト。
日本で初めて大型土木機械が導入され、技師を海外に派遣し、もう、いろんなことが初めてのプロジェクト。動員された人工は、延べ800万人です。

そうやって、現在の淀川、新淀川は無事に完成します。
この超ビッグプロジェクトの完遂を記念して、それに相応しいビックな碑が建ってます。

毛馬閘門


んで、新淀川の開削に伴って、旧淀川(現在の大川)は支流化し、毛馬に、船の運航のための水位差をコントロールする「毛馬第一閘門」と流量調節する「毛馬洗堰」を設置することとなります。
これが、1907年(明治40年)に完成します。

それが、これ。幅10.91m、全長81.81mの閘門です。

毛馬閘門


扉をくぐって、下におりてみると、こんなかんじです。

毛馬閘門


前後に扉があって、それぞれの扉で、新淀川と旧淀川をせき止めます。んで、片方ずつ開閉して水位を上下させ、船を進ませるわけです。

現場に、図解入りで詳しく解説されたプレートがありました。

毛馬閘門

毛馬閘門


すでに使われていない閘門なので自由に入れるのだけれども、近くまで寄ると、なかなかの迫力です。

毛馬閘門

毛馬閘門

毛馬閘門

毛馬閘門


側面はレンガ造り。要所要所は、石材でできています。
丸い穴は、船を繋ぐための、係船環。

毛馬閘門


そしてこちらが、現在の閘門。

毛馬閘門


現在の閘門とかつての閘門の位置関係を示すプレートもありました。

毛馬閘門


一方で、「毛馬洗堰」は、1910年(明治43年)に完成します。
こいつで流量を調節することによって、旧淀川の水面は新淀川よりも約2m低くなり、洪水のリスクを激減させました。

これが洗堰。

毛馬閘門


こうして、淀川の氾濫に苦しめられてきた大阪も、とりあえずは、洪水リスクを激減させることができました。いやいや、それにしても、すごい大事業。

熱意の人、「淀川屋さん」大橋房太郎。
技術の人、「日本治水工事の始祖」沖野忠雄。

このふたりが果たした役割は、計り知れません。




毛馬閘門・洗堰・淀川改修紀功碑
大阪市北区長柄東3-3

mapを見る



毛馬北向地蔵は、珍しい3体セット
毛馬の水門、閘門、淀川大堰のあたりは、もちろん開発もされてないし人もあまり来ないので、古い風景がそのまま残っているところが、いくつかあります。というか、普通に堤防の原っぱですけど。。

淀川大堰は淀川の水位調整をしており、毛馬水門は淀川から大川に流れる水量を調整し、水門が閉ざされてしまうと船の運航ができないので、そのために閘門があります。

このあたりには、大阪城築城にあたって運んできたものの、このあたりで沈んでしまって実際には使用されなかった石が転がっているという話があり、うろうろしてると、見つけることができます。そのまま今でも転がしてあるからね。ちなみに、そうした石のことを「大坂城残念石」と呼ぶんですが、ネーミングが微笑ましすぎます!

毛馬の水門については、いつかキッチリとやりたいんですが、今回は、水門付近で見つけたお地蔵さんを。

水門付近に、淀川改修紀功碑という、やたらと風格のある石碑が建っているのですが、そのすぐ隣に、祠に安置されたお地蔵さんがあります。

毛馬北向地蔵


自然石の前面に彫刻されたものが両サイドに安置され、真ん中に祀られているお地蔵さんは、角の取れた自然石そのものです。

毛馬北向地蔵


案内のパネルを見ると、
このお地蔵さんたちは「毛馬北向地蔵」と呼ばれ、
一体は、明治の終わりごろに旧毛馬洗堰新設工事のとき、浚渫により、大川から発見された。
一体は、大正9年頃、内務省機械工作所が旧光龍寺(十三付近といわれている)の整地のときに掘り出された。
一体は、昭和6年頃、土佐堀の旧内務省大阪土木出張所(現建設省近畿地方建設局)敷地内にあったものを移転し、この地に安置された。

とあります。
さらに、

このお地蔵さんは、そのむかし、聖徳太子が仏教を広めるために大阪市天王寺区に今もその名が残る六万体町で六万体のお地蔵さんをつくらせ、全国にそれを安置させたそのうちの三体であり、
歴史的にも古く、淀川を洪水から守っていただくなど、霊験新たかなお地蔵さんで、遠くからの参拝者も多く、毎年8月23日の地蔵盆には御詠歌で供養している。

と。

通常、仏像は南に向けて安置します。
仏教が日本に入ってくる経路にあった中国には「王者南面」の考えかたがあって、皇帝や王侯は北を背にして南を、家臣は北を向くかたちで王宮がつくられます。たとえば、京都の御所も、この様式を受け継いで、南向きにつくられています。北面の武士、という言葉も、ここから来てるし、京都で東が左京、西が右京なのも、その様式に則ってのことです。

この考えのもとに、日本では、仏像のほとんどは南向きに安置されるんですが、お地蔵さんだけは、オレはべつにエラくないし民衆のなかに入って奔走したいから!と言って、頭も丸めてるし、一切の装飾も排しているし、オマケに北を向いてます。

この考えに基づかずに、ほかの仏像同様に南に向けて安置されているお地蔵さんが大半で、本来の筋通りに北を向いているお地蔵さんはかえって少ないのですが、こちらのは北向きですね。

しかも、3体。

お地蔵さんが群れをなして安置されている例は珍しくないですが、3体セットというのは、あんまり聞いたことがありません。
これが大日如来なら両脇に菩薩を従えて3体セットというのはありがちなパターンだけれども、お地蔵さんだしな…。
キリスト教の三位一体はありえんとしても、仏教のルーツでもあるヒンドゥ教に三神一体の考えがあるんで、そういう感覚でも入ってるのかしらん?と思わんでもないですが、まあ、妄想の域を出ません。



毛馬北向地蔵
大阪市北区長柄東3-3

大阪市の北区をグルグル巡るブログのためのmap






長柄の鶯塚は時空の裂け目か?
鶯塚

長柄の豊崎東小学校もちょい北側、天満橋筋から分岐する旧道に沿って、夜になるとぼんぼりが灯る、怪しげな一画があります。

近づいてみると、椋の大木をご神木とし、鳥居、祠、石碑があり、大木古木につきものの、ヘビが住むという伝説、ミイサン伝説でもあるんかいな、と思って近づいてみると、お稲荷さんとあり、ふーん、と、思ったのでした。

鶯塚


ふーんと思い、でも、裏手にもいろいろあったので、そちらへまわってみたのでした。
すると、梵字が刻まれた印塔と石仏群があり、これは並のお稲荷さんとは違うぞ、と。

鶯塚


ご神木の根元を見ると、「鶯塚」と刻まれた小さな石碑が目に入ります。

鶯塚

鶯塚というのは、ときどき目にします。奈良の若草山には、鶯塚古墳もあるし、鶯というのは、ヘビと並んで、古代の伝承に、わりに高い頻度で登場してくる動物ですね。

由来が書かれたものが、設置されてありました。どうやら、ちゃんと保存会があるらしいです。そりゃそうだな、キチンと手入れされてるんだから。

由来のパネルには、次のように書かれていました。

今から1200年ほど昔、長柄長者の美姫が鶯を飼っていて、えらくかわいがっていた。ところが、この姫が病のために亡くなると、鶯は深くその死を悲しみ、歌を詠み、後を追うようにして死んでしまった。
長者たちは、このうるわしい話を後世まで伝えようと、鶯を姫と一緒に埋葬し、鶯塚と名付けた、と。

また、長柄のこの地は、1310年前、第36代孝徳天皇の皇后の遺跡であり、中大兄皇子と藤原鎌足中臣が大化の改新を断行した由緒の地でもあり、『摂津名所図絵』によると「孝徳天皇の御陵は南河内の山田村に古来より鶯凌と称へられているので、この鶯塚も天皇に関係の高貴の方の御墓であろう」とある。

また、今から240年前の正徳3年の夏、河内狭山の藩士で笹本源之介が父の仇である加州の浪人羽滝伝太郎を母とともに4年間探しており、長柄長者の配慮により、この鶯塚のほとりで見事仇討ちを遂げ、狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたという、この鶯塚を舞台にした芝居もある、と。
むかしは小丘の上に五輪塔の墓があって、その前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ、小庵もあり、線香の煙が絶えなかったという、と。


とまあ、3つの伝承が書かれているのですが、最初の、長柄長者の姫と鶯の話は、バリエーション違いをよく耳にします。まさに、そうした伝承とともに、鶯塚は、きっと全国にあります。
要するに、塚なり神木なりがあり、そこになんらかの霊性を人々が感じとり、コミュニティがその場所を神聖化し、やがてはコミュニティ維持のための装置として機能させるようになる…。そういうものは全国にあるし、この鶯塚も、きっと、そのようなもののひとつだと思われます。

問題というか、でっかい疑問として残るのは、大化の改新が、この地で断行された、だと?

ここで、大化の改新について、整理しておきます。
大化の改新は、4代にわたって政権を掌握していた蘇我氏にたいして、藤原鎌足が中大兄皇子と謀議してクーデーターを起こし、藤原の時代をスタートさせた政変で、それこそ、孝徳天皇の時代に断行された政権交代ですな。

蘇我氏暗殺を行なったクーデターと、その後の政権奪取、政治改革までを含めて、大化の改新です。
藤原鎌足が中大兄皇子と謀議したのは桜井あたり、暗殺の舞台は飛鳥。
その後、さまざまなものを一新するために、都を飛鳥から難波宮に移します。
この難波宮のあった地が、長柄です。で、大化の改新を後世に伝える資料の元となる「改新の詔」が発布されたのが、難波宮に都を遷してからのことなのですね。

なので、一般的には、大化の改新は奈良の飛鳥を舞台とした政変劇とイメージするけれども、それは蘇我氏暗殺というクーデーターが起こった場所であって、改新が行なわれ(詔が発布された)、さまざまな政治システムの改革が計られたのが、長柄に存在した難波宮である、ということです。孝徳天皇の時代のことですわ。

ちなみに、難波宮の名称は、日本史に2度登場し、大化の改新の詔を発布した際のものは、前期難波宮、もしくは難波長柄豊崎宮と呼びます。
その後、都は転々とし、天平年間、聖武天皇によって新たに難波宮が建てられ、そこに遷宮されます。これは、今の上町台地、大坂城の南に、その遺構がありますな。



この鶯塚、新道と旧道の分岐にあたる場所にあって、時空の裂け目を感じさせる場所に建っていますが、見ると、この地で歴史が重層的に織りなしており、この裂け目からは、いろいろなものが見えてきそうです。





鶯塚
大阪市北区長柄東2 豊崎東小学校東側道路

大阪市の北区をグルグル巡るブログのためのmap




与謝蕪村は毛馬の生まれだったのか!
与謝蕪村 生誕の地


毛馬の浄水場までチャリを走らせていた折り、与謝蕪村の生誕の地の碑というのを見つけて、大阪生まれの人だったのか!と、ちょっと驚きました。
与謝蕪村といえば、京都の島原角屋を拠点にしていたイメージが強いので、京都の人だとばっかり思っていたのでした、僕は。
大阪の、それも毛馬の生まれだったとは!
なんか、今では与謝蕪村公園まであるそうですね。もっとも、この公園は毛馬橋の東詰、都島区ですから、このブログでは紹介しませんが(笑)

起て居てもう寝たといふ夜寒哉
とか、
蚊の声す忍冬の花の散るたびに
とか、

まあまあ好きな句もあるにはあるのですが、僕は、じつのところ、与謝蕪村がそんなに好きではありませぬ。というか、松尾芭蕉、小林一茶と並んで日本三大俳人に数えられていることにすら、少々違和感を覚えます。あんまり、いいとは思わんのですね。

芭蕉みたいに、思想性が表面に出ることはなく、ただただ情景描写に徹するスタイルは、表現形態としては、少々浅い、と、僕は思うのですね。まあ、言葉は洗練されてるけれども、だからなに?ってかんじで。

ま、でも、墓を見つけたので、一応、エントリー。
しかし、大阪のどこかを描写した蕪村の句を見たことがないのですが、あるんだろうか?(笑)
やっぱ、京都の人でしょう、この人は。

大阪も、ちょっとでも引っ掛かったら、なんでもかんでも商売にする、というのは、やめたほうがいいかと。




与謝蕪村 生誕の地
大阪市北区長柄東3丁目 毛馬堤防上

大阪市の北区をグルグル巡るブログのためのmap



長柄の鶴満寺の八角楼
京都と奈良の境の木津に、蟹満寺という、非常にそそる名前のお寺さんがあるのでした。

そこはかつて奈良時代以前に一瞬だけ都が置かれた場所でもありますから、その時代のお寺さんである可能性が高いのですよ。詳しいことはわかっていないのですが、周辺の発掘調査から飛鳥時代の創建と推測されていて、本堂に祀られている釈迦如来像はもちろん国宝で、白鳳時代の逸品です。
流行りの阿修羅像を持ち出すまでもなく、この時代の仏像は軽やかに仕上がっているものが多く、ここの釈迦如来像も、清々しくも軽やかな姿をしているらしいのですね。

らしい、というのは、じつはまだ見たことがないのですよ。
行こう!となった、昨秋、お寺さんの改修工事がはじまっていて、拝観できなくなっており、再度オープンするまで、しばし待たねばなりません。
白鳳時代の仏像や建造物がそのまんま残っている例は少ないので、これはいつか、必ず拝みたいもんです。

創建がはっきりしないのですが、それでも、今昔物語集に創建にまつわる「蟹満寺縁起」があります。

この縁起では、むかし、このあたりで観音経を信仰する善良な娘さんがいらっしゃってですな、あるとき、村人が蟹をたくさん捕らえて食べようとしていることに心を痛め、その蟹を買い求めて、草むらへ逃がしてやったのでした。

一方、これまたとある日、この娘さんのお父さんが畑を耕していると、カエルが蛇に飲み込まれてしまいそうになっていたのですね。で、このお父さんが、カエルを助けてやりたい一心で、蛇に向かって、なんと、もしカエルを放してやったら娘を嫁にやろう!と、言ってしまったのですよ。

言ってから大変なことを言ってしまったと悔やむお父さんなのですが、後悔先に立たずです。

数日後、立派な男性に化けた蛇が娘さんを嫁に迎えるべくやって来たのですが、とりあえずは、嫁入りの支度を理由にその日は帰ってもらい、その後もずるずるとなんやかんやと理由をつけては、会わずに逃げていたのでした。そしたら、だ。男は本来の蛇の姿に戻って、暴れ出すわけです。

娘さんは、ひたすら、観音経を唱え、観音さんに救いを求めていました。
すると、観音さんが現れてですな、あなたたちは慈悲深い行いをしただけなのだから、私が救って差し上げよう、と、告げたのでした。

するとですな、しばらくすると、暴れまくる蛇の音が消えたので、夜明けを待って戸を開けてみると、輪切りにされまくった蛇の肉片と、無数の蟹の死骸が、そこに残されていたのですね。

蟹が娘さんの身代わりとなってくれたのですね。
で、この親子は、観音さんに感謝し、蟹と蛇の霊を弔うためのお堂を建て、聖観音菩薩を祀ったのでした。

これが蟹満寺の縁起です。
このあたりは木津川が流れてますから、蟹はもちろん、川の蟹ですね。





さて、勢い余って、蟹満寺の話を書いてしまいましたが、今回、書きたかったのは、蟹満寺ではなく鶴満寺なのでした。。。。

鶴満寺。

国分寺から長柄にかけて、お寺さんが密集している地域でチャリを走らせていると、珍しいかたちをしたお堂があって、近づいてみると、鶴満寺、とあったのでした。

鶴満寺

つるまんじ、じゃなくて、かくまんじ、ですね。

上方落語に桜の名所として鶴満寺が出てきますが、そーでしたか、こんなところにありましたか。今では、四方をマンションやらビルが取り囲んでいますが。。。

縁起を見てみると、

奈良時代に慈覺大師が創建したと伝えています。大阪のお寺さんは、どこも意外と古いんですよね。
創建当初は河内にあったけれども、西中島南方に移転再興し、再び荒廃。その後、詳細は不明なのですが、金持ちの豪商の発願で、寛延3年(1750年)、長柄のこの地に移転してます。江戸時代の中期ですね。
そんときは伽藍がたくさんあって広々としていたのですが、明治18年(1885年)のキタの大洪水を契機に衰退します。昭和に入ってから、当時の住職さんが財政再建に乗り出して、墓地やらなんやらを売っぱらって寺域を縮小し、リストラ敢行。余った土地で借家経営をはじめて、なんとか持ち直した、と。大阪大空襲のときも、被害を免れてます。

今、老人ホームやら保育園やらを経営して、お寺さんを維持しているらしいです。

近年、淀川リバーサイド計画と天満橋筋の延長道路拡幅のため、境内の主要部分が道路予定地に含まれてしまい、保育所用地を道路西側に残し、堂舎は建ったまま道路の東へ引越した、なんて話も残ってます。

釣り鐘がなかなかの逸品で、高麗時代初期の中国銅鐘の名品です。重文指定、受けてます。どういう経緯で日本に渡来してきたのか不明なのですが、毛利藩が土木工事をしているときに山口で発見され、鶴満寺に寄進されたんだそうです。

見どころなのは、観音堂の屋根にしつらえられた八角楼ですね。

鶴満寺



屋根のてっぺんに八角楼が見えます。
ほれっ!

鶴満寺



寛延3年(1750年)、長柄のこの地に移転してきた際、豪商がスポンサーになっているのですが、そうしたスポンサー筋を満足させるため、きっと、百観音巡りができる八角楼のような変わり種を建てたんだと思います。観音堂の屋根の上に載せるところがすごいですけどね。
円形、もしくは円形に近い多角楼は、聖徳太子で有名な法隆寺の夢殿を持ち出すまでもなく、神聖なセンスをかんじさせるものと仏教界ではなっとりますので、ありがたいかんじがあったんでしょうな。
これはなかなか見応えのある楼で、機会があれば、登ってみたいもんです。




ところで、満つながりで、冒頭に蟹満寺について書きまくったのにもかかわらず、このお寺さんが、なぜ、鶴満寺と呼ばれるのか、さっぱりわかりません(笑)
鶴が巣をつくったとかなんとかという話はあるのですが、鶴満寺が建ってずーっと後のことなので、それは寺名とは関係ないようです。




鶴満寺
大阪市北区長柄東1-3-12

大阪市の北区をグルグル巡るブログのためのmap

1/1PAGES
▲page top

pagetop
Copy Right(c)2009-2011 Joe's Garage inc. Asakaho Luis Ryuta All Rights Reserved.