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早い・安い・美味い☆の三拍子揃った、天満最強ランクの定食屋さん「梅香」
東天満方面は、すぐそばまでは毎日のように行くけれども、エリア内に足を踏み入れることはあんまりありません。用事がないんで、ちと縁遠い。

でもねー、ここにはですね、個人的に、天満最強の昼飯定食屋☆と呼びたくなるお店があるのですよ。
久しぶりに行ってきました。

梅香


「梅香」という定食屋さんなのですけどね。一膳メシ屋さんとは違っていて、あくまで定食屋さん。で、なぜかカレー屋さんでもある。
堀川小学校から2ブロック東側にあります。
名物は、なんといっても日替わりのサービスランチですわ。日替わりのサービスランチが名物ってのも変な話なのだけれども、まあ、見てくださいませ。納得すること請け合いですから。

表に、本日のサービスランチがボードに書かれています。

梅香

これ、パッと見たら、5種類のサービスランチがありますよ〜、どれでも650円ですよ〜、ってふうに見えますね。

ところがどっこい…、ぜーんぶ、お盆に乗っかって登場します〜。
ボードに書かれていたメニューは、どれかひとつを選ぶのではなく、サービスランチの中身がすべて書かれていた、ということですわ。

梅香

鶏唐揚げ(5ピース)
コロッケ
カツオたたき
ホタルイカの酢みそ和え
菜の花の酢みそ和え
具だくさんのかす汁
お漬けもの
丼ごはん

これ全部で650円。。。
ちなみに、ごはんは小があるので、そちらを注文すると、620円。。。
すべての皿がメインディッシュになるようなボリュームです。
ちなみに、お盆が来たときには、漬けものの小皿は、お茶の湯のみのうえに重ねられていました。つまり、お盆にすべてが乗らない量…。

で、さらに驚くのが、これ、注文後約1分で供されます(笑)

つくり置きってわけでもないのだけれども、お昼専門のお店だし、どんどこどんどこお客さんがやってくるし、大半のお客さんがサービスランチを注文しはるんで、先まわりしてガンガンつくってはるんやと思います。
揚げ物は、そりゃ熱々ってわけにはいかんですけどね。
でも、安くてボリューム満点の定食をいち早く提供する、というのがこのお店のスタイルなので、それでいいのです。
第一、熱々じゃないだけで、美味いことは美味いんだから。

味はですね、ホッコリと安心できる、いわゆるおふくろの味。
なにひとつ冒険してないけど、そのぶん安心できる。僕は、そういうお店のほうが全然好きですから。

時間がないときなど、これほど重宝するお店はないです。
そしてもちろん、時間があるときでも、お昼のひととき、幸せになれるお店です。




梅香
大阪市北区東天満2-7-7
tel. 06-6358-0371
11:00-14:00
日・祝休み


大きな地図で見る

モダン建築なので最近のお寺さんかと思いきや、太閤さんの時代からいろいろあった天満別院
天満別院


大阪天満宮から東にずーっとチャリを走らせると、結構、お寺さんがあります。

もともとが寺町でもあったので、その名残で今もお寺さんも多いのですが、檀家以外に拝観させてくれるお寺さんは少なく、しかも、何度かの建て替えを経た末に、コンクリート造りであったりビルになっていたりで、およそ一般的な寺社建築をしていないお寺さんも多いので、うっかりすると見逃してしまいます。まあ、用事がある人以外は、見逃したところで、なんの損もしないでしょうが(笑)

さて、そのなかで、ひと際異彩を放っているのが、天満別院。
なんか、ヤクザの親分の自宅みたいな…(笑)

昨日今日できたようなモダンなお寺さんに見えますが、創建は、天正13年(1585年)。まさに、太閤さんが天下をとっていた時代です。

それこそまさに太閤さんが寺地を寄進し、今の造幣局の近くに建てられたそうです。天満の川崎だったので、当初は、川崎本願寺と呼ばれたそうです。

さて、こっから、本願寺というか真宗は、受難の時代がはじまります。

本願寺といえば一向一揆のメッカ、特に石山本願寺の顕如とそのとりまきの僧兵が、時の権力者を相手にブイブイ言わしていたわけです。
1581年、織田軍を相手に10年以上戦った挙げ句に、紀州に退いたりしたのでした。ただ、その石山本願寺も一枚岩ではなく、顕如の長男の教如は紀州撤退を拒み、石山本願寺に立てこもり、各地に檄文を飛ばしたり…。ま、いろいろあったわけですが、最終的には石山本願寺は炎上、教如と、顕如・異母兄弟の准如は対立していくわけで、もう、グチャグチャですねん。

ほいで、1592年に顕如が亡くなると、教如があとを継ぐんですが、准如派が秀吉に働きかけ、教如は隠居させられ、准如が石山本願寺の一派のトップに就くわけです。

このあたり、政策よりも政局、今の日本の国政とよく似てます(笑)

まだ続きます。
関ヶ原の決戦後、1602年、徳川家康の時代がやって来るわけですが、徳川家康というのはつくづく知恵者で、隠居させられたはずの教如に本願寺の東側に寺領を寄進し、息を吹き返さらせるわけです。すでに本願寺のトップに就いている准如がいる一方で、隠居したはずの教如は家康によって本願寺の東半分を与えられ、本願寺は再び分裂ですよ。
結局、本願寺というのは、時の権力者が簡単にコントロールできる存在ではないので、一枚岩になって強力になるよりも、分裂させて、それぞれの力を半減させるよう、家康は企てたわけです。
この企てが見事にハマって、以後、本願寺は現在に至るまで2派に分裂、准如側を西本願寺(本願寺派)、教如側を東本願寺(大谷派・現在はさら分裂)と呼ぶようになった、と。


さて、天満の川崎本願寺ですが、もちろん、この、京都での分裂騒動の余波を受けるわけです。
天満では、東本願寺派の坊主衆や門徒衆が多かったので、その人たちが集まって、慶長6年(1601年)、川崎本願寺から東本願寺派の天満御坊に看板を掛けかえます。その後、慶長13年(1608年)、造幣局の近所から、今の東天満の地に移り、天満別院となります。これで、やーっと、看板が今の看板になります。

で、建物のほうはですね、これはもう、お祓いをしたほうがいいんじゃないの?ってくらいに(仏さんが神頼み!笑)呪われていて、享保9年(1724年)、安永6年(1777年)、天保8年(1837年)と、3回も焼失。その都度再建されたのはさすが真宗!というほかありませんが、第二次大戦でも戦災に遭うのですよ。
ほいで、現在のモダンな外観に生まれ変わったのは、昭和35年です。
ただ、惠心僧都の作と伝えられる本尊の阿弥陀如来像と寺宝は、何度も見舞われた火事をくぐり抜け、現在も、無事におわします。


なんか、資料を読んでいると、4,190平方メートルの敷地のうち約2,640平方メートルを、32年から60年間の契約で、読売テレビに貸与した、と、あるのですが、これ、どこの土地なのかなあ?
現在の読売テレビと天満別院の位置は離れているし、どこの土地をさしているのか、ちょっとわかりません。それでも、約2,640平方メートルといったら、広々とした土地ですが…。

ほか、「天満別院同胞会」「天満別院子ども会」「天満別院婦人会」と、講が組織されています。そのあたり、さすがは現在も教科活動に熱心な真宗!といったところです。熱心に活動しているからこそ、資金も潤沢です。本願寺をはじめとする京都の真宗のお寺さんは、拝観料を取らないところがほとんどですからね。拝観料をちまちま取らなくても、ちゃんと経営していけるだけの資金が、全国から寄進されてくるからね。


そんなわけで、東天満の一角にあるモダーンなお寺さんも、じつは、日本を代表する宗派の真ん中にいた歴史すら持つ、なかなか由緒正しいお寺さんなのでした。

あ、だからといって、見るべきものは、じつはそんなになかったりするお寺さんです(笑)
少なくとも、観光スポットではないな。







天満別院
大阪市北区東天満1-8-26

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