山片蟠桃(yamagata bantou)の名前を初めて知ったのは、大阪府が主催する国際的な賞の創設を目指していたころ、創設委員のひとりだった司馬遼太郎が、「山片蟠桃の名を冠すればいいのではないか?」と提唱し、そのまま山片蟠桃賞に落ち着いた、という経緯を知ったときでした。
そのくだりについては、当時、司馬遼太郎がエッセイを書いていて、当初は日本文学に関する賞で名前も「井原西鶴賞」に内定していたのを、司馬が、京都が紫式部賞をつくったら負けると言い、賞の趣旨を変更して、日本文化を研究した国外の学術者に授与する賞、に、落ち着いたのでした。名前も、「山片蟠桃賞」。
これ、調べてみたら1982年(昭和57年)のことだから、僕が高校生だったころのことです。
ちょうど、今、NHKの大河ドラマでやってる坂本龍馬にかぶれていたころで、それも司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んでかぶれたときで、司馬遼太郎はそのとき以来、僕にとってのフェイバリット・ノヴェリストなのですが、山片蟠桃っちゅーのは、司馬遼太郎が口にするまでは、世間的には無名の人だったように思います。坂本龍馬も、司馬が「竜馬が行く」を書くまでは明治以来忘れ去られた存在だったというし、その意味で、司馬遼太郎の仕事は、今の日本人が平均的に持つ日本史の知識の底上げに大きく寄与した、ということができると思います。国民作家と呼ばれる所以、ですな。
さて、山片蟠桃ですが、司馬遼太郎がその名を出して以来、一応、目に留めるようにはしてきたけれども、そう簡単にお目にかかれる名ではありませんな。
このあいだ、日本の仏教史を俯瞰した本を読んでいたとき、久しぶりにその名を見ました。
戦国時代から江戸末期にかけて、日本仏教界はしばしば堕落します。堕落、というよりも、世間に対してほとんど力を持ち得なくなります。檀家制度をつくって、葬式仏教で安定収入を得る方向に走って、救済だとか解脱だとかとは無縁の、ある種、社会の中の安定したシステムに組み込まれるようになるわけです。
そんななか、キリシタンの思想が台頭してきたり、儒学の側から仏教批判があったりするんですが、仏教側が正面から反発を示したのが、科学的な立場に立って仏教の経典の信頼性に疑問を呈したりする一派ですわ。
この一派の代表格が、山片蟠桃です。
彼は、加古川の農家に生まれ、大坂の両替商に仕えた江戸時代中期の商人なんだけれども、同時に学者でもありました。
大坂町人の私塾である「懐徳堂」で学ぶんですが、大坂の商人のための塾なので、合理的精神を学ばされます。その精神と山片蟠桃が生来持っていた資質とがよほどビタッと符合したんだと思うんですが、彼は、きわめて合理的な、それこそ神も仏もないような唯物論的な立場でモノを論じる学者となっていきます。
地動説を主張し、仏教の世界観である世界の中心は天に届く須弥山が全宇宙の中心だというのは誤りである。
地獄・極楽・輪廻などの説は誤りである。
日本の神代は事実ではない。
無鬼論(無神論)を展開。
などなど。
いや〜、近現代科学の見地に立てばそうなのだろうけれども、それを言っちゃあおしまいでしょ!とでも言いたくなるほどの、実も蓋もないモノ言いで、血も涙もないというかんじです。。。。(笑)
まあ、こうした科学的な理論の意義をじゅうぶんに認められなかったところに、日本の近世仏教の限界があったりもするんですが、それを語りだすとべつの話になってしまうので、またべつの機会にでも。
とにかく、山片蟠桃という人は、日本人の中では相当に変わった資質の持ち主で、世が世なら共産主義者になってソ連の創設にかかわったんではなかろうか、と思えるほどの人ですわ。
ただ、そんな彼の合理精神は商売の面では存分に生かされたようで、幼少より、大坂の両替商に仕え、若くして番頭となり手腕を奮ったそうです。
財政破綻した仙台藩に建議し、差し米(米俵内の米の品質チェックのために米を部分的に抜き取ること)をそのまま集めて利用し、無駄を浮かせて節約し、藩札を発行するなどしてます。
で、藩札を発行した代わりに、従来の金貨の金を差し米の節約で捻出した資金で大坂に輸送し、それを利殖にまわして巨額の利益をあげ、仙台藩の財政を再建させたりもしてます。
これによって彼は、傾いた大名貸しの金を回収しているのだから、今だと、さしずめ某J○Lに乗り込んでいって、経営を立て直し、不良債権化していた融資を全額回収した凄腕銀行マンみたいなもんです。
この功績で、彼が仕えていた両替商の升屋は、彼に山片姓を与え、親類並みに遇します。
「蟠桃」の名は、ここの番頭さんだったんで、そっからとった号ですな。
司馬遼太郎がなぜ彼の名を冠した賞を提唱したのかというと、彼の功績が近代思考の先駆的役割を果たしたのみならず、そのスケールはまさに世界レベルだったからなのだそうです。同時代にあって、西洋のトップレベルの学問を吸収していたんだとか。鎖国の時代なので、これはすごいことですな。
主な著作として「夢の代」があるんですが、天文・地理・神代・歴代・制度・経済・経論・雑書・異端・無鬼(上下)・雑論という章立てになっているこの大著は、ソビエト科学アカデミーで、初期唯物論の先駆的著作として紹介されていたともいいます。しかもこれ、山片蟠桃が晩年になって自身の研究の集大成的に書いたものだけれども、視力を失いながら書いたらしいです。
で、なんでこんなにも山片蟠桃について書き連ねているのかというと、天神橋筋商店街の3丁目あたりの東側にある与力町にはお寺さんがズラズラッと軒を連ねる寺筋がありまして、そのなかのひとつ、善導寺ってところに、「山片蟠桃墓所」の碑を見つけたのでした。
それで、つい(笑)
えーっと、善導寺については、いろいろ調べてみたけれども、なんもわかりませんでした。。。
拝観も公開もしてないんで、どーにもならんですよ。
バックに高層マンションをしたがえた、なかなかシュールな景観のお寺さんであるな、と(笑)
ついでに、「山片蟠桃墓所」碑の隣にある近藤宗悦ってあるんだけれども、これもアンタ誰?ってかんじです。勤王志士と書かれているんで、幕末の頃、倒幕に奔走した人なんでしょうけれども。。。。
山片蟠桃墓所(善導寺)大阪市北区与力町2-5
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