僕のブログは、北区内の町別にカテゴリー分けしています。
もともとが地域のことを勉強する目的でこのブログを立ち上げたので、町別にいろいろ調べるのが調べやすく、そのようにしています。
天神橋だけ1〜8丁目と8つの町でカウントして、それ以外の町の○町目はひとくくりにひとつとカウントすると、61あります。なので、このブログのカテゴリーは、61と、プラスαに分けられています。
中之島とか西天満とか、エリアのデッカイ町は、勢い、エントリーの数が増えます。
あと、地元の天神橋3丁目や4丁目、商業施設が集中している梅田あたりも、エントリーが伸びます。
長柄や大淀はあまり足を運ばないこともあってか、エントリー数はちょびっと。
2年以上、雨が降ろうが槍が降ろうが、毎日(日曜定休)、なにがしかの記事をエントリーしているけれども、じつはまだ、エントリー数がゼロのカテゴリーもあります。
大淀北
万歳町
南森町
紅梅町
この、4つ。
エリアが異常に狭かったり、なかなか足を運ばない、と、理由はさまざまなのだけれども、共通しているのは、こんなことを言ったら怒られるかもしれんが、あんまり書くことがない(笑)と。
というわけで、なかなか全カテゴリー踏破とはならんのですが、ついに、万歳町についてエントリーする日が来ました(笑)
万歳町は、「banzai-cho」ではなくて、
「manzai-cho」と読みます。
狭いエリアでね。
扇町公園の西側とJR環状線の高架に挟まれるようにして存在しているエリアです。
もう、扇町か中崎でえーやん!と、僕みたいな外の人間は気楽に言うけれども、まあ、そうはいかん事情は、きっとあるでしょうな(笑)
かつては民家もたくさんあったというのだけれども、万博開業当時から延々と塩漬けになっている神山町の交差点からJRをくぐって中崎町へ抜ける道路建設のために、ほとんどの民家は立ち退いているので、めだったもんがほとんどないエリアです。
カレーのブルーノの工場があったりするくらいかなあ。
ここの塩漬けになっている謎の土地の西側(写真の左側)が、万歳町。
1914年(大正3年)の通町名改称で新設された地域やそうです。
もともと、梅田病院というのがあったんだとか。
大阪細菌研究所を設立した医者の古津度先生が、当時の大阪市内に伝染病室が不足しているのを憂いて、病床60室を備えたオープンシステムの伝染病患者専門病院として、設立されたとのこと。
戦後、この敷地は、曽根崎防犯協会に貸与され、「よしず児童遊園地」として広く市民に利用されていたらしいです。
ただ、今、公園らしきものもその跡地らしきものも、このあたりにはいっこもないので、よしず児童遊園地なるものも、どこにあったのか…。
このあたりは、古くから池田街道筋(能勢街道)で、宿場と宿場の間の宿として栄えたそうです。場所的に北野青物市場の町域に入っていただろうから、物流の拠点にもなってたでしょうな。
このあたりの氏神さんである喜多埜稲荷に、夏祭りで大層盛り上がった、なんて記述の著作が残ってます。お盆でどこもかしこも閉まっているときに、ここだけは、営業していたらしい。
人さまが休んではるときに働くと儲かるのは、いつの時代でも変わらぬ真理ですな。
さて、万歳町という町名はどっから来たのかというと、鍵は、
喜多埜稲荷神社にあります。
阪急東通り商店街のドン突きにある、綱敷天神の境内のなかに、喜多埜稲荷神社はあります。
鳥居と祠のあいだに、橋の欄干らしきものが見えます。
これ。
「萬載橋」って刻まれてますね。元々この橋は、今の地下鉄中崎町の駅のあるあたりに架かっていたと言われています。
で、この橋が、「万歳町」の由来となっているとのことです。
さて、「萬載橋」の名の由来は、確たる裏付けがあるわけではないのだけれども、このあたりの長老さんに、
萬の米俵を載せてもビクともしない橋、というふうなことを聞いたことがあります。
その橋の名から、転じて、万歳町という町名ができた、という流れは、悪くないですね。
お笑いの漫才説は…、街道筋だから小屋があって、その場所でお笑いが賑わい…、なんて推測も楽しいのだけれども、そういう推測を裏付けるものがなにもないからなぁ…。
万歳町萬載橋 跡碑
大阪市北区神山町9-11 綱敷天神社境内 喜多埜稲荷神社
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