大阪市の北区をグルグル巡るブログ | 大阪市の北区メインでいろいろ仕事をしてます。仕事場も住んでるところも大阪市北区なので、北区をグルグル巡って、目にしたもん耳にしたもん感じたもんを、つらつらと書いています。

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実写板「耳をすませば」か!? 天満宮のすぐ近くに、弦楽器の修理・製作のアトリエがあるのです。
ちょっとしたご縁で、先日、バイオリン職人の仕事場にお邪魔しました。
バイオリンやチェロ、ビオラ、コントラバスなど弦楽器の製作・修理職人さん。
天神橋1丁目、天満宮のすぐ傍のとあるマンションの一室に、そのアトリエはあります。

アトリエやまぐち

スタジオジブリの映画「耳をすませば」じゃあるまいし、まさか天満宮のすぐ近くのマンションの一室に、そんなアトリエがあるなんて、想像したことすらなかったですわ。

お邪魔してみると、こーんなかんじで、修理のために持ち込まれた弦楽器がズラリ。

アトリエやまぐち

アトリエやまぐち


楽器屋さん以外で、それもマンションの一室のようなロケーションで、こんだけの楽器が集まっている風景は、なかなか見慣れないもので、かなりビックリしてしまいました。

やっぱ弦の張り替えの仕事が多いとのことですが、ひび割れたボディを修理するなんていう大仕事もたくさんあるようです。
修理するためにボディを分解してみて、いい加減な仕事でつくられているバイオリンに出会うことも多く、そういうものを目にすると、やっぱり悲しくなるそうですね。

アトリエの主である山口さんは、ご両親がクラシックを楽しむご家庭で育ち、ごく自然に楽器を手にするようになります。大学時代にはチェロを奏で、友人とカルテットを結成し、音楽生活を満喫します。
それでも、それはあくまで趣味のこと。就職したのは大手の百貨店でした。
でもやっぱり、どこかで小骨が引っかかったように、楽器職人になる夢を捨てきれなかった。
そこで一念発起して、職人になると決意。イタリア遊学を経て、北浜の楽器輸入販売のお店に弟子入りします。その後、東京と大阪、2人の師匠のもとで12年間の修行を経て2003年に独立します。

幼少の頃からクラシックに触れ、楽器を操るのに、プレイヤーにならずに楽器の製作・修理の道を選んだのは、やはり、音楽が好きなのと同時に工作が好きだったからでしょうね、と、おっしゃってはりました。

お邪魔したときに、バイオリンやチェロのボディの表板と後板のあいだに挟むアニマ(魂柱)を見せていただきました。表板と裏板を直接つなげる唯一の棒で、アニマにより音が裏板まで振動し、楽器全体に音が響くようになります。
弦の張力によって表板には圧力がかかりますから、裏板とのあいだに挟まれている状態で、取り付けられています。
なので、弦の交換時にすべての弦を外してしまうと、表板に対する圧力がなくなり、アニマが外れてしまうことがあります。
その場合、表板のf字孔からアニマを差し込み、所定の位置に嵌めていくのだけれども、嵌める場所を決定し、任意の場所に嵌めるのは、まさに職人の五感のすべてを総動員する仕事です。最後に頼りになるのは、自分の感覚のみなのだそうです。

その作業をぜひ見学させていただきたかったのだけれども、今回は叶いませんでした。
次回、本格的に取材させていただくので、そのときこそ、ぜひ。

その代わりというわけではないけれども、製作途中のバイオリンのボディを見せていただくことができました。
こんなのです。
これこそ、実際に見ることなど、まずないので、ものすごく貴重なものを見せていただいた気分です☆

アトリエやまぐち


また今度、職人魂が炸裂するようなお話を、たくさんうかがいに行ってきます☆





アトリエやまぐち
大阪市北区天神橋1丁目8-16-403
tel. 06-6353-6770
HP http://www.gem.hi-ho.ne.jp/cellolin/
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天満宮の表門前に能舞台があるのを、ご存知ですか?
朝陽会館

天満宮の表門前に能舞台があるのを、ご存知ですか?
僕はまったく知りませんでした。

表門から南に伸びる参道の一番手前に、朝陽会館という建物がありまして、外から見ているかぎりは普通のビルなんだけれども、なかに入って階段を上がるとですね、立派な能舞台があるのですよ。
いやー、ビックリしました☆

朝陽会館

朝陽会館

朝陽会館

上町にある大槻能楽堂は狂言を見にときどき行くし、徳井町の山本能楽堂、北区にもある大阪能楽会館は、行ったことこそないけど、その存在は知っています。でも、天満宮の真ん前に能楽堂があったとは、恥ずかしながら知りませんでした。

観世流 職分の上野朝義さんが、こちらの能舞台を運営されています。

上野朝義さんはじめ、上野さんご兄弟3人は、全員が能楽師です。
お父さんもおじいさんも能楽師という、由緒正しき家柄なのです。

なんでも、ルーツは、朝義さんのひいおじいさんにあたる秦次郎さんにまで遡るといいます。出は、高槻。
高槻藩城代家老の豊田家から上野家に養子に入った秦次郎さんは、プロの能楽師にこそならなかったけれども、能をたしなんでおられた、と。高槻は、能が非常に盛んな土地だったそうです。

秦次郎さんの息子である義三郎さんの時代、天神橋筋で薬屋を営んでおり、秦次郎さんの息子である義三郎さんは薬剤師になるべく、東京の大学で学びます。でも、帰阪後、能楽師となってしまい、観世流の職分となってしまいます。職分というのは、職業的な能楽師、というほどの意味。
明治の時代のこと、この時代、東京に大学に行くというのは大変なことだと思うのだけれども、結局は、そのコースからあっさり外れて職分になってしまうあたり、血は争えんというかなんというか…、なんにしても、そこからは途切れることなく職分を輩出している上野家なのでした。

現在の能舞台がある朝陽会館は、昭和42年に建てられました。
戦前にこの地に大きな能舞台があったのだけれども、戦争で焼失、昭和42年に再建されたものだそうです。

かように由緒正しい上野家と朝陽会館の能舞台なのですが、存在すら知らない人も多いんじゃ…。

でも、天満宮で梅まつりが行なわれる2月下旬、上野家は勧進能を舞うのですよ。

2月20日(日)14:30〜 朝陽会館能舞台
2月20日(日)18:30〜 大阪天満宮本殿

2部制になっていて、
第1部は、ワークショップ「能とは?狂言とか?」
第2部は、本殿奉納

能といえば、神社の境内など、野外でやる薪能を思い浮かべがちだけれども、なんと、本殿で舞われます。
これは、ちょっと見たいな…。


上野さんに教えてもらったのだけれども、
能は、徳川時代初め、刀を取り上げた武士たちに文化を養う法を発布したおかげで、武士が能を舞うようになったといいます。
大阪では高槻で能が盛んになり、上野さんのひいおじいさんも、高槻藩の城代をされていたことから、この地で能文化を一身に浴び、能にのめり込んでいったのでしょう。

また、奇妙な縁のお話も。
上野家は薬局を営んでいたところ、能の世界に飛び込んでいったわけです。
そうやって医療の世界から離れていったのだけれども、今、朝義さんは、不思議な縁で、看護専門学校にて能の授業を行っています。
看護は、字のごとく、看取ることが肝で、その看取る力を養うために、能を勉強するわけです。能もまた、能面越しに、微妙な表情や仕草でさまざまなものを伝えていきます。そこに看護と能の共通点があるのだとか。
医療を離れて能の世界に飛び込んだ上野家が、今、再び医療と結びついている、という、不思議な縁です。


というようなお話をお聞きすることもでき、天満宮正面に能舞台があるということも知り、僕のなかで、能がなにやら一気に身近なものになりつつあります。

とりあえず、天満宮の梅まつりでの勧進御能は、行ってみるかな。




朝陽会館
大阪北区天神橋1丁目17-8
tel. 06-6357-0844
HP http://choyokaikan.com
mapを見る


第3回 大阪天満宮梅まつり
勧進御能 勧進元願主・観世流 上野朝義(朝陽会館館主)
日時
2011年2月20日(日) 14時30分〜於:朝陽会館能舞台
2011年2月20日(日) 18時30分〜 於:大阪天満宮本殿
料金
第1部 2,500円、第2部 3,000円
○大盆梅展の招待券を贈呈いたします
チケット取り扱い
朝陽会館 06-6357-0844
大阪天満宮 06-6353-00250
芦屋能舞台 0797-26-6290





川端康成が天満生まれやったとは知りませんでした
川端康成生誕碑


かつて僕が通っていた高校とおなじ学区の一番優秀な高校の出が、川端康成でした。
茨木には記念館もあるし、てっきり北摂の生まれ育ちだと思っていたら、天満の生まれだったのですね、川端康成。

天満宮の表門のまえの道を東へ少し歩いた四ツ辻の南西の角に、なかなか端正なたたずまいをした料亭、相生楼がありまして、行ったことはないのだけれども、店のまえはしょっちゅう通っているくせに、そこに生誕の碑があることなんぞ、あるよ、と、教えてもらうまではまったく気づかなかったのでした。

相生楼の門の右脇に、川端康成の生誕碑があります。

「伊豆の踊り子」「雪国」などの名作で、日本的叙情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968年)に日本人では初めてノーベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899年)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。

と、碑文にはあります。

つらつらと調べてみると、ここはかつて北区此花町1丁目79屋敷という地名で、ここは、近松門左衛門の「心中天網島」で小春と治兵衛が道行きした道筋にあたってます。川端康成が生まれたところが、そんなふうに文学的な縁のある地と重なっているのは、まあ、偶然としか言いようがないですが、ちょっと奇妙な縁を感じますな。

ほいで、かの地で川端家はなにをやっていたのかというと、医院です。お父さんの栄吉が、医者でした。
といっても、代々この地で医院を営んできたというわけではなくて、最初は北堀江、そっから安土町に移って、此花町のこの地。お客、というか患者がさっぱり来ずで、全然流行らんかったんで、場所を転々としていたんやそうです。
そのころの大阪は不景気のまっただなかで、不景気になると医者に行かんと我慢する人のほうが多いのと、栄吉自身が肺結核にやられてたんで、そら患者も来ません。
康成生後1年経つか経たないかのころに、天満のこの地を去って、転々を繰り返してますから、生誕の地といっても、生まれただけ、と言ってもいいのかもしれませんな。

川端康成は、両親を幼いときに失い、たったひとりの兄弟であった姉も10歳のときに亡くなり、天涯孤独の身になります。母方の実家や祖父、伯父に助けられて、東京の一高、東帝大(現、東大)に進むわけです。

幼くして死に別れを経験してるのだから、激しい慟哭もあったとは思うんですが、彼の作風からは、そういったもんは微塵もないですな。

「油」という短編があって、そんなかに、幼少時代のことが少しだけ触れられています。

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父は私の三歳の時死に、翌年母が死んだので、両親のことは何一つ覚えていない。母はその写真も残っていない。父は美しかったから写真が好きだったのかもしれないが、私が古里の家を売った時に土蔵の中で、いろんな年齢のを三四十種も見つけた。そして中学の寄宿舎にいた頃には一番美しく写った一枚を机の上に飾ったりしていたこともあったが、その後幾度も身の置きどころを変えるうちに、一枚残らず失ってしまった。写真を見たって何も思い出すことがないから、これが自分の父だと想像しても実感が伴わないのだ。父や母の話をいろんな人から聞かされても、親しい人の噂という気が矢張りしないので、直ぐ忘れてしまう。

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慟哭を覚えるのには、まだ自我が芽生えてなかった、ということなのかもしれません。
それよりもむしろ、最初からあったであろう喪失感が、のちの文学的な美の達成に繋がっていったんではなかろうか、と、思ったりもします。


谷崎の絢爛さとはまた違った、詩情溢れる美しい言葉が連なる、繊細な表現ばかりです。太宰のようなニヒリズムもない。息を飲むような美しさの連続です。




碑文には、「短編の名手」とあります。
「日向」という短編が僕は好きで、何度読み返したかわからないほど。
川端自身とおぼしき人物が、初恋の少女の話に交えて、べっぴんさんを見かけたときには無言で凝視してしまう癖があることについて、つらつらと語っている、そういう掌編です。
ほとんどヘンタイさんの域だけれども、これがまた美しいファンタジーに仕立て上げられてて。。。。








川端康成の生誕之地 碑(相生楼前)
大阪市北区天神橋1-16-12

mapを見る


不思議な仕掛けがいっぱいのレトロビル「フジハラビル」は、いつ行っても新しくて楽しい☆
フジハラビル 天神橋1丁目


知り合いが絵の個展を開いたので、行ってきました。
会場は、大阪天満宮の南にある、フジハラビル。とてもとても、味わいのあるビルです。
はっきり言って、知り合いの絵は常時見ているので、個展はどうでもよかったんです(笑)それよりも、お目当てはフジハラビル!かーなりおもろいビルですよ☆

1923年(大正12年)の建築。外壁は味わい深い茶色のスクラッチタイルで、地下1階、地上4階。ギャラリーやデザイン事務所などとして使われてるビルです。ここで個展を開く人も後を絶たず、もはや名物ビルです。

フジハラビル 天神橋1丁目


レトロビルや古民家のリノベーションは今、大阪でもわりと盛んだけれども、フジハラビルは、そんなブームがやってくるずっと以前にリノベーションされたところです。というか、今もあちこちを補修していて、人を飽きさせない仕掛けも常に更新されてます。
もっとも、このビルのすごいところは、オーナーの藤原さんがたったひとりで10年がかりで補修されたというところ。ちなみに藤原さんは、大学で法律学の教鞭をとっておられた先生なので、素人っちゃ素人ですねん。

バブルの最中の1988年(昭和63年)に、おとうさんの藤二郎さんが亡くなり、それを機に、ビルのオーナー職に就かれたんですが、そんときは廃ビル同然の惨状で、取り壊そうと思ったらしいです。普通、そうしますわな。でも、おかあさんの「愛着のあるビルだから残してほしい」というひとことが、藤原さんを思いとどまらせ、一念発起して、ひとりリノベーション! もうね、DIY精神のカタマリみたいなもんですから☆

それからというもの、ホームセンターに毎日通い、道具を買っては壁を剥がしたりペンキを塗ったり。壊れていたトイレも修理したそうです。もちろん失敗も数多く、水道管を破裂させたことも何度もあるとかで。
それでもめげずにひとりで格闘し、ビルは少しずつ生き返らせます。
素人仕事ゆえ、ペンキ塗りにムラがあったり床がでこぼこしていたりもするんですが、それがまた不思議と建物の味わいを増してるんですよ。

薄暗いエントランスを通って階段を上がったところで、不意に小鳥の鳴き声がしたり(センサーで人に反応する仕組みになっている)、窓をのぞくと向かいの屋根に陶器の犬が寝そべっていたり…。
普通のビルにはない楽しみかたができます。

フジハラビル 天神橋1丁目


外観だけを見ると、耐震強度とか大丈夫なの?と不安になること請け合いなのですが(笑) 常に変化することをモットーにされているので、意外なほど新しい試みが導入されています。

ギャラリースペース確保のために徹夜で壁を抜いたり、ビル全体に音響設備を設置したり、窓に大型プロジェクターを仕込んで映像を流したりと、案外と最新設備が満載なのです。

地下と4階が多目的スペースになっていて、演劇やコンサートが行われてます。その演劇とリンクして1階窓のプロジェクターでは劇中劇の映像が流されたり…、ちょっと他では見られない仕掛けもあります。
2階と3階はテナントやデザイン事務所なのだけれども、階を上下する階段の壁いたるところが、ギャラリーになってます。もう、ビル全体がギャラリーのためのスペースみたいなもんです。

フジハラビル 天神橋1丁目

フジハラビル 天神橋1丁目

フジハラビル 天神橋1丁目


その、飽きなさ加減というか、レトロなビルなのに、常になにかしらの新しい発見があり、常になにかが更新されているところがね、このビルの素敵なところです。

もともとが破産法の専門家でもある法律家の藤原さんなので、多くの再生レトロビルが、改修するだけで満足してしまって一時的に人気が出てもすぐに飽きられてしまう現状をよく知っておられて、そうならないために活用される方策、テナントや貸しスペースとしての価値を高めるアイデアを、常に考えておられます。


これは、外壁に描いた壁画(笑)
フジハラビルが羽ばたいた画家さんが日展に入選され、それを記念して、壁画にしたそうです。吹きっさらしの絵って、すごいなっ!

フジハラビル 天神橋1丁目



ここみたいに生き生きとした近代建築って、滅多にないと思います。
それは、オーナーの藤原さんが、この建物に惜しみなく愛情を注いでおられるからです。
訪れてみると、そのことがよくわかります。


フジハラビル 天神橋1丁目









フジハラビル
大阪市北区天神橋1丁目10-4

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