中津の
富島神社、大淀の
八阪神社、そしておなじく大淀の
素戔嗚尊神社(susanoo-no-mikoto-jinja)は、たぶん、ルーツはおなじだと思う。
大体、素戔嗚尊神社の鳥居には、わざわざ「八阪神社」と書かれてます。
この3社は、縁起を見ると、3社ともが、
牛頭天王社(gozu tenno-sha)とも
祇園社とも称されていたことがあり、分祀や合祀を繰り返した果てに、現在の姿になったのではなかろうか、と。
素戔嗚尊神社の縁起には、このように書かれています。
通称、八阪神社。
創建年代など、詳しい記録は残っていない。
牛頭天王社(gozu tenno-sha)とも祇園社とも称され、浦江村の氏神として子孫繁栄、疫病災厄守護の御神徳をもって厚く崇敬された。
古地図によると、浦江村は田蓑島にあり、田蓑島は太古より形成された難波江の多くの島のなかのひとつで、住吉の八十島祭りの行われたところである淀川の川尻で、禊斎修祓の行われたるに相応しく、源氏物語に「たみのの志まにみそぎつかうまつる」と述べられている。
また、史書に、伊勢斉宮女御の御禊の地で野宮、斉殿を設置し給うたところとしている。当時の村人たちの神でもある素戔嗚尊をこの地にお祀りするようになったと推察される。
と。
富島神社は…、
創建はよくわかっていないみたいなのだけれども、社伝によると、室町時代にすでに存在していたことが確認されていて、その当時は、「牛頭天王社」と呼んでいたみたいです。
豊崎神社の摂社である鹿島神社の役割も担っていたようで、祭神の武甕槌命(takemikazuchio)を祀ってました。全国の鹿島神社は、皆、この武甕槌命を祀っていて、藤原家の氏神さんですな。
「天王」を名乗っているのは、どっかで、速素盞烏尊(susanoonomikoto)を祭神としたからで、武甕槌命も速素盞烏尊もどちらも疫病退治の神さん ですが、速素盞烏尊のほうが人気があったんで、いつのまにか、速素盞烏尊だけが祭神として祀られるようになったんやと思います。
明治元年 の神仏習合令により、神号に「牛頭天王」の使用が禁止され、明治2年に浪速八十島の利島にちなみ(まだこのあたりが海やったころ、利島という島があったん でしょうな)、利島神社と改称してるんで、このときには天王の名称がとれてますから、そのあたりから武甕槌命はフェードアウトしていったんではなかろう か、と。
八阪神社は、この地に縁のある百済からの五経博士、王仁さんにちなんではいるみたいなのだけれども、やっぱり速素盞烏尊を祭神としてます。
とまあ、こんなかんじで、見れば見るほど、ルーツはおんなじではなかろうか、と思えてくるわけです。
次回、そういう観点で、このあたりをもっぺん攻めてみようと思ってます。なんかしら見えてくるもんがあるかも。
こちらは本殿。伊勢遷宮の寄付を募っていたので、やっぱ、伊勢斉宮女御の御禊の地なのだということがわかります。
鳥居のど真ん中を貫いている大木がインパクトありすぎだったので、ついシャッターを☆
素戔嗚尊神社(susanoo-no-mikoto-jinja)大阪市北区大淀南3-3-25
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